【野球】「最悪だな…」阪神を戦力外になった当時の野村監督と再び同じチームに 楽天の第2代監督に抱いた複雑な感情
元阪神のドラフト1位で今季からBCリーグ・山梨のGMを務める山村宏樹さん(49)は、テスト入団した近鉄で5年間プレーし、2004年オフの分配ドラフトで楽天に移籍した。新規参入球団の初代監督に就いた田尾安志氏は1年で交代し、2代目の監督となったのは野村克也氏だった。阪神を戦力外になった当時の指揮官との“再会”。だが、複雑な思いはいつしか消えていった。
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野村氏の楽天監督就任を知った時に湧き出たのは「最悪」という感情だった。
1999年オフに阪神を戦力外になった時の指揮官。「(阪神残留が)決まっていたところでギリギリで切られたとか、周りから聞いたこともあったので、監督になると知って最悪だなと。でも自分も30ぐらいの、いい年齢になってたので、別にいいわとも思いましたけどね」。山村さんは包み隠さず当時の気持ちを口にした。
近鉄に移籍後、阪神とのオープン戦で野村監督と言葉を交わしたことがあったという。
「あいさつには行ってたんです。そしたら『場所が変われば、やっぱり力は持ってたな』といったことを言われて」。移籍1年目からローテ入りを勝ち取るなど活躍していた山村さんを野村監督は認めてくれていた。
同じユニホームを着て迎えたキャンプではブルペンでしばしば話もした。「技術的なことより、こういうボールを覚えておいた方がいいとか、ボソボソッと。まだお元気だったので、歩いて回られてましたね」
ありし日のノムさんの姿を懐かしんだ。
野村氏が阪神監督に就任した99年シーズンは、自律神経失調症を患い1度も1軍で投げられなかった。だが、楽天で野村監督は山村さんを積極起用。2006年は先発ローテの一角を担い30試合に登板、136・1回を投げ、自己最多タイの7勝(10敗)を挙げた。翌07年には中継ぎとしての地位を確立し34試合で6勝2敗1セーブ、10ホールドの成績を残した。
「なぜかわからないですけど、めっちゃ、使ってくれたんですよ、本当に」。出てくるのは感謝の言葉だった。近鉄では優勝した2001年を最後に登板数が激減していたが、野村監督のもとで山村さんは再び輝きを取り戻した。
百戦錬磨の指揮官が、寄せ集めと揶揄されることもあった新設球団の基盤を作ったことへ尊敬の念も抱いている。
「始まった年は、とんでもなかったですから。その後4年間、野村監督がやりましたよね。バラバラで集まってきた選手を使うのは大変じゃないですか。今の楽天を作ったのは野村監督だと思いますし、あの4年間があったから良かったという感じがします。ミーティングで自分も勉強することができましたね」
野村ノートは阪神時代に貸与され、寮で全ページをコピーして持っていた。「野村の教え」への理解度は再会した楽天時代に、格段に深まっていった。
「今でももちろん、持ってますし、見ることもあります。高校生を指導する時にも、野村監督の教えが基本にあります。野村監督の野球をやった人たちって、そうだと思いますよ」
引退後、母校の甲府工で非常勤コーチを務めたり、野球教室で指導をしたりする際にも野村野球は、自身の指針となっている。
野球人である前に社会人であれ-の教えも身をもって知った。
「野球を終わって外に出た時に、ものすごく分かるようになりました。営業をやる時に茶髪で行くとか、ピアスをして行くとか、ヒゲで行くとかって相手がうーんとなるじゃないですか」
野球解説者と並行して、地元山梨の会社に籍を置き、営業に携わる山村さんは、かつての指揮官の言葉をかみしめている。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇山村宏樹(やまむら・ひろき)1976年5月2日生まれ。山梨県出身。甲府工から94年のドラフト1位で阪神に入団、98年9月17日の広島戦でプロ初勝利。2000年に近鉄にテスト入団し、同年にオールスター出場。01年には優勝に貢献し、日本シリーズ出場。04年の分配ドラフトで楽天入りし、2012年に引退。プロ在籍は18年で225試合に登板、通算31勝44敗2セーブ、20ホールド。防御率5・01。今年からBCリーグ・山梨のGMを務める。