【野球】20歳で旅立った、中日入団のもう一人のエース 史上初春夏連覇の作新学院 八木沢さんが明かす思い

八木沢荘六さん
 プロ入り初勝利を飾った中日・加藤斌=1963年10月22日、甲子園球場
 中日入団発表 右から高田球団代表、父正三さん、作新学院高校・加藤斌、母リカさん=1962年12月1日
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 プロ野球OBクラブの理事長を務める元ロッテ監督の八木沢荘六さん(80)は、栃木・作新学院高時代の1962年にセンバツ優勝投手となった。史上初の春夏連覇を目指していたが開会式当日に赤痢感染が判明、強制隔離の憂き目に遭った。代役を務めたのは、控えの加藤斌(たけし)投手。大車輪の活躍で栄冠を勝ち取り歴史に名を刻んだが、その後、悲運が待ち受けていた。八木沢さんが当時を回想した。

  ◇  ◇

 赤痢感染によるエースの離脱という予期せぬアクシデントに見舞われながら、作新学院は夏の大会で快進撃を続けた。

 八木沢さんに代わってマウンドに立った加藤投手は初戦の対気仙沼(宮城)で延長11回を4安打12奪三振の1失点完投。2回戦の対慶応(神奈川)も完封した。

 八木沢さんが退院してベンチに復帰した準々決勝の岐阜商戦も加藤投手は8回を0封し、9-2での快勝に導いた。

 準決勝の相手は優勝候補と言われていた、強豪中京商(愛知)。木俣達彦捕手(元中日)と林俊宏投手の強力バッテリーと、息詰まる投手戦を展開。決め球のシュートでピンチを切り抜け、散発3安打に封じ、2-0で決勝進出を決めた。

 当時のデイリースポーツには「加藤君がすばらしいから僕など投げるチャンスがないですよ。もう一度も出なくていいでしょう」という八木沢さんのコメントが掲載されている。

 19日の決勝戦。作新学院は久留米商(福岡)を1-0で破った。不測の事態を乗り越えての前人未到の春夏連覇。1932年のセンバツ優勝校、松山商(愛媛)が夏の決勝に挑んで散っていたが、44回大会でジンクスを初めて打ち破ったのだ。

 加藤投手はこの試合でも5安打0封の快投。八木沢さんの不在を埋めて計5試合46回を自責1で投げきった。

 「僕が春は投げて、夏は加藤がどんどん、どんどん投げて。春、夏でチームは7点しか取られてないんですよ。加藤は40何イニング投げたから、2人で100イニング近く投げて」(※岐阜商戦は熊倉投手が2番手で1回を投げ3安打2失点)

 春に52回超を投げた八木沢さんは、二枚看板となった加藤投手をたたえた。

 閉会式では主将の中野孝征内野手に優勝旗が、八木沢さんには優勝盾が手渡され、惜しみない拍手と歓声の中、場内を一周した。「でっかいのを持ってね、うれしかったですよ」。そう振り返りつつ、本音も漏らした。

 「入院しちゃったでしょ。学校に帰れないんじゃないかと思ってた。伝染病だったからね。顔向けできないって」。手放しで喜べなかった複雑な胸中を吐露した。

 大会後、地元では盛大に凱旋パレードが実施された。栃木・宇都宮駅から学校までの沿道はぎっしりと人で埋め尽くされ選手らが乗った車は通行が困難なほどだった。「20万人が集まったんです。僕は後ろの方の車に乗りました。だって、何もしてないから」。八木沢さんは苦笑した。

 夏の優勝投手となった加藤投手は、プロからの注目を集め、高校卒業後に中日に入団。1年目に初勝利、2年目に2勝をマークした。だが3年目を前にした1月、悲劇は起こった。

 1月3日に宇都宮市内で開かれた作新学院の同窓会に出席した加藤投手は、その後、スポーツカーで日光街道を走行中に事故を起こし、帰らぬ人となった。

 「俺はその同窓会には行ってなくて、地元であった中学の同窓会に行ってたんです。翌日に連絡があって、亡くなったと聞いて会いに行ったんです。まだね20歳、20歳で亡くなっちゃったんですよ」

 八木沢さんはやりきれない表情を浮かべた。

 高校時代から八木沢さんは1日に200球から300球を投げて体を作り、フォームを固めていた。「加藤もね、ものすごく投げるんですよ。俺と争ってね。ものすごく練習して」。隣で負けずに投げ込む加藤さんの姿を思い浮かべた。

 加藤さんの姉と結婚した、元中日の内野手だった土屋弘光氏とは付き合いが続いており、口を開くと加藤さんの話題になるという。

 「先日もね、電話で話をしたところです。タケシ(加藤さん)は残念だったよなって。いつも、そんな話になるんです」

 あまりに早く逝ってしまったライバルへの思いが消えることはない。

(デイリースポーツ・若林みどり)

 ◇八木沢荘六(やぎさわ・そうろく)1944年12月1日生まれ。栃木県出身。作新学院、早大を経て、66年のドラフト1位で東京(現ロッテ)入団。73年にプロ野球史上13人目の完全試合を達成、最高勝率・875を記録した。在籍13年で394試合に登板。71勝66敗8セーブ。防御率3・32。92年から94年途中までロッテ監督。ロッテを含め、西武、横浜、巨人、阪神、オリックス、ヤクルトと7球団のコーチを歴任した。日本プロ野球OBクラブ理事長。

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