【野球】17歳でプロ入りした伝説の投手「速いとか、そんな次元じゃない」V9戦士、高田繁氏がナンバー1に挙げる浪商のエース
巨人のV9戦士で日本ハム、ヤクルトで監督を歴任した高田繁さん(79)は、名門・浪商高校(現大体大浪商高)1年時に、夏の甲子園で優勝を経験している。当時のエースは、「怪童」と呼ばれた尾崎行雄さん。チームを高校野球の頂点に導き、プロ野球界でも伝説を作った剛速球を、高田さんは自身の野球人生におけるナンバーワンと位置づける。
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昨年11月、高田さんは大阪市内で行われた母校・浪商高校(現大体大浪商高)野球部の創部100周年記念式典に出席した。
「東京六大学が今年100周年、巨人は去年90周年、阪神が今年90周年だからね。歴史が古いんだなって驚いた。張本(勲)さんからもメッセージが届いててね」
通算32度の甲子園出場、春夏2回ずつの優勝を誇る、母校の歴史の重みを改めてかみしめた。
「昔と違って、今は大阪桐蔭、履正社とかがね。俺らのころはPLとかね。今は(浪商は)、野球強豪校からしたらちょっとね、もう一歩だな」。夏は1979年、春は2002年を最後に甲子園から遠ざかっている後輩たちにエールを送った。
浪商1年だった1961年。夏の甲子園で高田さんは歴史にその名を刻んでいる。
当時の浪商人気はすさまじく、野球部の同期は300人もいたほど。そんな中でも高田さんの存在は際立っていた。1年生として唯一、ベンチ入りを勝ち取り、2戦目から左翼手として試合出場を果たした。
「甲子園に出たかったから浪商に入ったんだけど、1年から使ってもらってね。運もあった。メンバーも尾崎さんがいてそろってたから優勝できた。本当に恵まれてた」
2年生エースの尾崎さんのほかにも、3年には尾崎さんとバッテリーを組んだ大塚弥寿男さん(ロッテ)、住友平さん(阪急)、大熊忠義さん(阪急)とそうそうたるメンバーが集結していた。
浪商は準決勝で、のちに巨人入りする柴田勲さんを擁する神奈川の法政二と対戦。延長の末に浪商が勝利し、法政二の春夏3連覇を阻止した。決勝では和歌山の桐蔭を下して栄冠をつかんだ。
優勝投手になった尾崎さんは、その年の11月に電撃的にプロ野球入りする。17歳で浪商を中退し、東映(現日本ハム)に入団、プロ1年目で20勝をマークし、チームの優勝に貢献、新人王に輝く離れ業を演じた。
尾崎さんの剛速球は今なお、高田さんにとって衝撃のボールであり続ける。
「誰が1番の投手ですかって聞かれたら、真っすぐだけで言えば、絶対に尾崎さん。自分が経験したり、見たり、聞いたりした中で、今でも1番。タイミングが合ってもボールが(バットの)上を行く。そういう剛速球。速いとか、そんな次元じゃない。オーバーではなくブォーンとボールが上がる。プロ野球の強打者が、真っすぐと分かってて打てないんだから」
両手を交差させて、バットの上を通過するボールの威力を再現してみせた。
尾崎さんはプロ入りからの5年間で4度も20勝以上を記録したが、その後は故障に苦しみ、第一線で長く活躍することはできなかった。「短かったからね、故障で」。鮮烈な印象を残した先輩投手に思いをはせた。
1年夏の優勝後、高田さんの甲子園出場はかなわなかった。だが、子供のころからの夢であったプロ入りは現実味を帯びてきていた。
「3年になって、阪急と南海の2球団から声をかけられてね。南海沿線に住んでたし、南海ファンだった。阪神とか巨人には興味がなかった。実家はおやじがサラリーマンで、子供を6人育ててる環境だったから、経済的にも大変だったし、親孝行のために好きな球団だった南海に入ろうと思ってた」
ドラフトがまだなかった時代。スカウトと面談も済ませて契約は目前となっていた。だが、当時の浪商の監督、理事長からの説得により「南海・高田繁」誕生は幻となった。
「すぐにプロに行ってもダメだから大学に行けと話をされて。南海の鶴岡監督には断る時に会った。本当は東京六大学でやりたい、神宮でやりたいっていう気持ちがあったから」
高田さんの野球人生は、大阪から東京へと舞台を移すことになる。
(デイリースポーツ・若林みどり)
高田 繁(たかだ・しげる)1945年7月24日生まれ、79歳。大阪府出身。右投げ右打ち。外野手、三塁手。浪商高から明大に進み、67年に巨人からドラフト1位で指名され入団。1年目からレギュラーとして活躍し、68年は新人王と日本シリーズMVPに選ばれた。堅守、巧打、俊足でV9に貢献、71年には盗塁王を獲得した。76年には三塁手にコンバートされた。80年に現役を引退し、85年から日本ハムの監督を務めた。退任後は巨人のヘッドコーチなどを歴任、05年に日本ハムのGMに就任。08年からヤクルト監督、11年からはDeNAの初代GMを務めた。