【野球】西武・松坂の引退に、異色のセカンドキャリアの先駆者、元広島の石本を思う
平成の怪物、西武・松坂大輔の引退に、異色のセカンドキャリアの先駆者を思い出した。
松坂は夏の甲子園大会決勝でのノーヒットノーランを達成。日米両国でプレーし、五輪、WBCでは日本代表のエースとしても活躍した記憶にも記録にも残る選手である。西武の渡辺久信GMによれば、松坂の体調面、精神面が回復した段階で会見が行われるという。その席上で、今後についても語られることになるだろう。注目したい。
彼の引退は本当に残念でならない。と同時に、彼がどんなセカンドキャリアを送るのか気になった。
毎年、引退や戦力外通告を受けてユニホームを脱ぐ選手は、12球団で100人にも達するという。一部の選手は指導者や野球解説者、タレントへの転身の道がある。12球団合同トライアウトやNPBへの復帰を目指して独立リーグや台湾プロ野球へ活路を見いだそうする選手もいる。だが、大半の選手は職探しに奔走することになる。
そんな選手の中で強く印象に残っている人間がいる。1983年のドラフト会議で広島から5位指名され、野球の名門校・倉吉北高から入団した、背番号「60」の石本龍臣である。彼は84、85年のわずか2年プレーしただけで、1軍経験もなく引退。そのまま競輪選手へ転身した人間である。いまでこそ、ヤクルトの選手から競輪選手になり、S級1班で活躍している松谷秀幸などがいるが、石本がその先駆けだろう。
当時、広島は1軍選手に実戦の近いボールを打たせるため、支配下の投手に打撃投手をさせることが多かった。彼もその一人だったと記憶している。その彼が20歳で引退したのには理由がある。確か、目の焦点が合わないことがあり、投球に支障をきたすようになっていたためである。
その石本に競輪選手への道を開いたのが、当時広島の取締役スカウト部長だった故木庭教だった。名スカウトとして知られる木庭は熱狂的な競輪ファンで「スカウトの仕事を辞めたら、お前の会社で競輪の評論家として雇ってくれ」といっていたほど。その木庭の友人が当時、広島支部所属で、S級選手として大活躍していた佐古雅俊だった。石本は木庭のツテで佐古に師事し、日本競輪学校第60期生として入学し、87年に競輪選手になったのである。
競輪選手になる決意をした石本を取材するため、85年のオフに広島から在来線を乗り継ぎ、岡山・津山市にある実家まで行ったことがある。話を聞き、家の近くをランニングする姿を撮影させてもらった。確か、家までタクシーを呼んでもらった。そのときに、石本の「脚力には自信があります。絶対、競輪選手になります」という言葉を原稿に書いた記憶がある。
石本は2011年7月26日に通算2112戦370勝の成績を残して競輪の世界からも引退した。今はどんなサードキャリアを送っているのだろうか。=敬称略=(デイリースポーツ・今野良彦)