大河ドラマ「べらぼう」老中・松平定信はなぜ男女混浴を禁じたのか? 識者語る
大河ドラマ「べらぼう」第34回は「ありがた山とかたじけ茄子」。老中首座となった松平定信は、倹約令と風俗統制令を出したことで有名です。ちなみに定信は「房事(性交)は子孫を増やそうと思えばこそ行う。情欲に耐え難いと感じたことはない」(定信の自叙伝『宇下人言』)と主張した人物でした。さて風俗統制の1つとして挙げられるのが男女混浴の禁止です。それまで江戸の湯屋では「男女混浴」だったのですが、定信は男女はそれぞれ別の浴槽に入るべしとしたのでした。風紀の乱れに繋がる混浴を定信は黙視できなかったのです。
しかし混浴禁止は風紀の乱れを防ぐことだけが目的ではなかったと言われています。職人や零細な商人が住んで湯屋が多い地域の統制も目的としていたというのです。そのような地域は打ちこわし(百姓や町人らが群集して高利貸しなどの家屋を破壊すること)を起こしかねない者が住んでいると考えられ、その統制をも男女混浴禁止令は包含していたとされます。
が、禁止令が出ても風紀を乱す者は無くならなかったようで、老中・水野忠邦による天保の改革(1841年~1843年)においても混浴禁止令が出されています。それでも混浴の習俗は根絶しませんでした。幕末、黒船で来航し、日本を脅かしたペリー提督も混浴について記述しています(『ペルリ提督日本遠征記』第4、岩波書店、 1955年)。ペリーは、裸体をも頓着せずに男女混浴している公衆浴場の光景を見たアメリカ人は住民(日本人)の道徳に関して否定的な見解を抱いたと記述しています。日本人は東洋の諸国民に比べて「道義が優れている」とペリーは書いていますが、混浴の習俗には嫌悪感を抱き「疑いもなく淫蕩な人民」と日本人のことを評しているのです。徳川幕府が倒れ明治時代となっても、時の政府は混浴禁止令を出しています。混浴は軽犯罪となり、違反者には罰金が科されるようになりますが、それでもすぐに混浴は無くならず。混浴が無くなったのは明治時代の中頃や末頃とされます。
(主要参考・引用文献一覧)
・藤田覚『松平定信』(中央公論社、1993年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)
(歴史学者・濱田 浩一郎)
