大河『べらぼう』30歳で亡くなった種姫 松平定信の妹で将軍養女、大奥に…数奇な運命 識者が語る
NHK大河ドラマ「べらぼう」第20回は「寝惚けて候」。種姫の縁組について描かれていました。種姫は明和2年(1765)、田安宗武の7女として誕生します。宗武は8代将軍・徳川吉宗の3男であり、御三卿(田安・一橋・清水家。御三家と同様、将軍の跡継ぎを輩出することを目的に創設された)の1つ田安家の初代当主でもありました。
一方、種姫の生母は山村氏の娘・香詮院。香詮院は宝暦8年(1759)に賢丸(後の幕府老中・松平定信)を産んでいますので、種姫は定信の実妹です。種姫の転機となったのが安永4年(1775)のこと。種姫は10代将軍・徳川家治の養女となったのです。
将軍養女となり、江戸城大奥に入った種姫ですが、他家との縁組が進められた形跡はありません。よって家治は種姫を我が子・家基(種姫の3歳年上)の正室に迎えようとしていたとの推測もあります。家基は順調に成育していれば何れは11代将軍となる人物です。将軍の正室は3代将軍の家光以降、宮家か五摂家(近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家)の姫を迎えるのが通例となっていました。例えば家光の正室は鷹司孝子ですし、5代綱吉は鷹司信子、10代家治は倫子女王(閑院宮直仁親王の娘)が正室でした。
よって、家治が本当に種姫を嫡男・家基の正室に迎え入れようとしたのかについては疑問の声もあります(歴史人編集部「田安の種まきに利用され「幻の御台所」となった種姫」『歴史人WEB』2025・3・11)。
家基が長生きしていたら、もしかしたら種姫の生涯も変わっていたかもしれませんが、家基は第15回「死を呼ぶ手袋」で描かれたように急死してしまうのです。10代の若さでした。結局、種姫は紀州藩主・徳川重倫(8代)の子・岩千代(後の10代藩主・徳川治宝)と縁組することになります。種姫が紀州藩の赤坂上屋敷に入ったのは天明7年(1787)のことでした。既に養父・家治も死去(1785年)し、徳川家斉(11代将軍)の治世となっていました。将軍の養女だった種姫の婚礼行列は大変豪華なものだったと伝わります。
しかし、その金銭的負担は紀州藩にのしかかってきました。種姫の結婚生活の詳細は不明ですが、夫との間に子はおりませんでした(治宝は側室との間には子をもうけています)。寛政6年(1794)、種姫は30歳で死去しますが、それは兄・定信の老中失脚(1793年)の翌年のことです。
(歴史学者・濱田 浩一郎)
