大河『家康』三方ヶ原合戦 徳川家康は武田信玄になぜ惨敗? 家臣の“忠告”が正しかった 歴史学者が語る

 NHK大河ドラマ「どうする家康」第17話は「三方ヶ原合戦」。元亀3年(1572)10月3日、武田信玄は、徳川家康の領国・遠江に侵攻します。信玄が家康領に攻め込んだ理由は、信玄の書状(10月21日)の文言(三ヵ年の鬱憤を散らす)から察するに、ここ3年間の、積もりに積もった信玄の家康への不満が爆発したからと言えましょう。

 今川氏真と和睦し、北条氏の兵と共に駿河に落ち延びさせたこと(1569年)。信玄の宿敵・越後の上杉謙信と家康が組んだこと(1570年)。信玄が窮地に陥ることを家康がやってきたから、侵攻したのだと信玄は主張しているのです。

 駿河から遠江に進撃した武田軍は、11月末には二俣城(静岡県浜松市)を陥落させます。東美濃の岩村城(岐阜県恵那市)の遠山氏も武田方に属しています。

 このような信玄の動きに織田信長は激怒します。と言うのも、信長は同年10月5日の段階で、信玄と上杉謙信との和睦に向けて調停を行っていたのです。

 それにもかかわらず、信玄はその2日前には、遠江に向けて進撃していたし、それ以前から岩村城にも調略の手を伸ばしていた。友好関係を保ってきた信長と信玄でしたが、そのような要因で、一気に関係は冷却化。特に信長は信玄を「前代未聞の無道」「侍の義理を知らない」「信玄とは2度とよしみを通じない」(11月20日付、謙信宛ての書状)と罵倒するのでした。

 武田軍の進撃を食い止めるため、同盟者である家康を助けるため、信長は家康に援軍を派遣します。平手汎秀・佐久間信盛・水野信元ら3千の軍勢を遣わしたのです。

 武田軍は12月22日、浜松城方面に向かい南下していましたが、突如、西に向きを変え、三方ヶ原(静岡県浜松市北区)へ。浜松城を素通りして、三河に進む構えを見せたのです。

 武田軍は約2万5千。徳川の軍勢は、織田の援軍を入れて約1万。圧倒的に劣勢でした。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)によると、浜松城から打って出た家康らは、野外において軍議。家康は武田軍と「一合戦しよう」と主張しますが、宿老らは「敵の軍勢は3万。信玄は熟練の武者。味方は僅か八千ほど」と慎重姿勢を見せます。

 それでも家康は「敵勢が自らの国を踏み破っているのに、多勢ということで、出陣して咎めないでおれようか。戦は多勢無勢で結果が決まるものではない。天運のままだ」と押し通し、武田軍に攻撃を仕掛けます。武田軍は魚鱗の陣(攻撃用の陣)をしき、徳川軍に対します。

 一方、徳川軍は鶴翼の陣(守備用の陣)をしく(『三河物語』)。武田の足軽300人ばかりが、先ずは小石を投げて、攻撃してきます。最初の合戦で織田の援軍としてきていた平手汎秀や、家康軍の成瀬藤蔵らが戦死(『信長公記』)。信長の小姓衆だった者も討死していきます。徳川軍は武田軍に中央突破され、壊滅状態に。家康は乱戦の中を、馬上から弓で敵を倒しつつ、浜松城に退いていきます。

 午後4時頃から始まった戦は、午後6時頃には終結。家康方の惨敗でした。家康は命こそ助かりましたが、手痛い敗北を喫したのです。家康の家臣が忠告したように、軍勢の多寡も敗戦の要因と考えられます。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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