【ヤマヒロのぴかッと金曜日】大阪・関西万博始まりまっせー!
大阪・関西万博開幕まであと2日。
海外パビリオンの建設は遅れ、チケットの売れ行きも低迷。頭にきたのが、欲しくてもややこし過ぎる購入方法。メタンガス爆発事故やテストランでの避難騒ぎなど不安ばかりだった報道が、ここへきて何事もなかったかのように開幕まで秒読みといったニュースに切り替わった。
迷走続きで大丈夫?と思わざるを得ないが、ブルーインパルスのテスト飛行まで見せつけられると、知らぬ間に背中を押されて一緒に走り出した気持ちにさせられる。
「人生で2度、地元で万博が開催されるんだよ。すごいイベントを2度も見られるなんてラッキーじゃないか」と友人から言われたが、前回はまだ8歳だった。家族と足を運んだ記憶はあるが、何を見たのかほとんど覚えていない。
iPS細胞の山中伸弥先生は、当時を振り返り「父親に連れられて見に行った。その後科学者になったことにすごい影響を与えていたと思います」と語っていた。同じ8歳でもノーベル賞をもらう人はやっぱり違う(先生、前にインタビューした折に「髪の毛も再生可能ですよ」って約束してくれましたよね?いつまでも待ってます!)。
あの時の万博会場は人、人、人の波だった。御堂筋線と北大阪急行が、梅田から千里中央を経て万国博中央口駅まで臨時線の直通列車として結ばれ(千里中央-万博駅間は、その後中国自動車道上り線に転用されている)私も恐らくその電車に乗って行ったのだろうが、それすらもよく覚えていない。
当時、大阪市交通局に勤務していた父は、臨時の応援部隊として新大阪駅に配置されたものの、新幹線から降りてきた外国人に道を聞かれても言葉が分からなかったため、ぜんぶ万博行きの列車に誘導したらしい(山中くんちのお父さまなら、きっとキチンと対応していたはずだ)。まあ、ずいぶん乱暴な話だが当時はそれほどごった返していたのである。会場ではお祭り広場の周辺を走り回ったことが、唯一、記憶に残っている。
テーマ館の大屋根を先に設計した丹下健三氏と、そこに穴を開けて『太陽の塔』を作ると主張した岡本太郎氏がもめたなんて、8歳の坊やには知る由もなかったが「得体(えたい)の知れないものがそびえ立っているなぁ」くらいには感じていたはずだ。
今なおそびえ立つ『太陽の塔』が『人類の進歩と調和』などという聞こえの良いテーマに対するアンチテーゼとして投げかけた岡本太郎氏からのメッセージだったという話を、去年、芸能生活30周年の記念公演で『太郎と太陽と大』を演じた落語家の桂春蝶さんが教えてくれた。近未来を感じさせる数々のパビリオンと、そこに立ちふさがる土偶のバケモノ。1970年の日本万国博覧会は『どう、生きるか』を私たちに強く突きつけていたのだ。
あれから55年。2度目の万博が始まる。進歩し続ける科学の結晶と、それをどう賢く使おうとしているのかを、批判する目も持ちつつ天気の良い日にでもちょっとにおいを嗅ぎに行ってみようか。(元関西テレビアナウンサー)
◆山本浩之(やまもと・ひろゆき) 1962年3月16日生まれ。大阪府出身。龍谷大学法学部卒業後、関西テレビにアナウンサーとして入社。スポーツ、情報、報道番組など幅広く活躍するが、2013年に退社。その後はフリーとなり、24年4月からMBSラジオで「ヤマヒロのぴかッとモーニング」(月~金曜日・8~10時)などを担当する。趣味は家庭菜園、ギターなど。
