大林宣彦監督 逝く…余命3カ月宣告から3年8カ月 遺作公開予定日に力尽く

 「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」など、出身地の広島県尾道市を舞台とした青春映画で知られる映画監督の大林宣彦(おおばやし・のぶひこ)さんが10日午後7時23分、肺がんのため東京都内の自宅で死去した。82歳だった。13日に葬儀・告別式を家族葬で行い、後日お別れの会を開く。喪主は妻でプロデューサーの恭子(きょうこ)さん。2016年8月にがんが発覚し、余命3カ月と宣告されてから3年8カ月。最期まで映画への情熱を絶やすことなく、現役の監督として旅立った。

 叙情性にあふれた作風で「映像の魔術師」と呼ばれた巨匠が、静かに息を引き取った。

 末期がんが発見されたのは16年8月。肺にステージ4のがんが見つかり、精密検査後に「余命3カ月」と宣告された。経口での抗がん剤が効き、一時は劇的に改善。17年3月に脳への転移が見つかったが薬で治し、遺作となった「海辺の映画館 キネマの玉手箱」は18年7~9月中旬に故郷・広島県尾道市で撮影された。

 岡山県の病院に定期的に通いながらメガホンをとっており、事務所関係者は「とてもとても元気でした。映画を撮っているときが一番元気な監督でしたので」と当時の様子を明かす。撮影後の10月に骨に転移し、治療を続けながら3時間に及ぶ超大作を約1年かけて編集した。転移を繰り返すがんと闘いながら、最後まで現役を貫いた。

 今年に入ってからは、3月中旬の検査入院を最後に家で療養していた。亡くなる直前まで会話のできる状態で、その後、妻の恭子さんら家族に見守られながら眠るように旅立ったという。命日はくしくも、新型コロナウイルスで延期となった遺作の当初の公開予定日だった。

 3歳の時に自宅の納戸で見付けた活動写真機に触れ、映画への興味を膨らませていった。1960年代のテレビCM草創期からCMディレクターとして頭角を現し、1日1本ペースで量産。手がけたCM数は3000本を超える。チャールズ・ブロンソンの「マンダム」など外国人スターを起用し、話題を集めた。

 77年に「HOUSE」で商業映画に進出。「転校生」(82年)「時をかける少女」(83年)「さびしんぼう」(85年)の「尾道三部作」は熱狂的に支持され、撮影地をファンが巡る“聖地巡礼”の先駆けにもなった。

 叙情的で色彩豊かな映像表現で魅了する一方、新人女優を抜てきした「アイドル映画」の祖としても知られる。晩年は非戦、平和を希求する作品づくりに注力。遺作でも現代の青年3人が過去の戦争時代にタイムリープし、それぞれの時代のヒロインと交流しながら歴史の激流に翻弄(ほんろう)される。関係者は「監督が映画の力を信じ、反戦の思いを込めた作品でした」と説明した。

関連ニュース

編集者のオススメ記事

芸能最新ニュース

もっとみる

    主要ニュース

    ランキング(芸能)

    話題の写真ランキング

    デイリーおすすめアイテム

    写真

    リアルタイムランキング

    注目トピックス