大舞台で花開いた中村亮土“努力のセンス” 恩師が語る原点

 果敢なタックルで何度もピンチを未然に防いだ。巧みなパスでトライを演出した。1次リーグ全試合に先発出場し、日本代表の躍進を支えた背番号12、CTB中村亮土(28)=サントリー。チームの防御部門のリーダーを担い、泥臭いプレーで貢献してきた。鹿児島実業高から始めたラグビー。そのスタートラインを、当時はコーチとして指導した富田昌浩監督(42)に聞いた。

  ◇  ◇

 決まれば勝ちだった。09年、花園で行われた全国高校ラグビー。1回戦で国学院栃木と対戦した鹿児島実は14-16で迎えたラストワンプレーでPGを得る。左45度、約40メートル。それまでPG3本を決めていたSO中村主将のキックは、右へそれた。高校最後の試合は幕を閉じた。

 鹿児島に戻った翌日。富田コーチはグラウンドに中村の姿を見た。「左45度、40メートル。同じタイミングと同じ歩数でずっとやっていました。引退しているのに、グラウンドに来てやっていましたね。普通に決めていました」。反復練習する姿が目に焼き付いている。

 鹿児島市立武岡中時代はサッカー部に所属。県3位に入る強豪だった。父・信也さんと富田コーチがラグビーの世界へ導いた。

 「亮土のお父さんがラグビーが大好きで、中3の夏休みに連れてきて、通うようになった。サッカーに未練があったんですけど、太ももがガチッとあって、キック力はめちゃくちゃあった。『ラグビーなら日本代表になれるよ』という話をして飛び込んできた」

 “日本代表”という誘い言葉。「お父さんも口癖のように言っていた。本人が自分なりにも洗脳したのでは」。魔法にかけられたように、その未知の世界を目指した。

 「初心者だったので、パスは投げられないし、足も速いわけじゃなかったんですけど、ものすごく努力家でした。練習が終わってからもフリーで練習して、絶対に経験者に負けないって口癖のように言っていたので」

 居残り自主練習が日課だった。

 「例えばプレースキック。10本成功するまでやると決めたら、ずっとやっちゃう。『もういいんじゃないの』って言われても、『10本って言ったんでやめません』と。全体練習が終わるのが(午後)7時くらいなので、9時までやっていました。ひたむきにとことんやる。“努力のセンス”がありました」

 高校時代、プレーで見せた泥臭さを覚えている。

 「相手のナンバー8ってSOをつぶしに来るんですよ。逆に亮土は最初にナンバー8にタックルに行っていた。口で引っ張るタイプじゃなくって、プレーで。ガツンと向こうの一番のキープレーヤーに行って、“ついてこい”っていうタイプでした」

 強豪・帝京大に進学。すぐに壁にぶつかった。周囲のレベルの高さを痛感。恩師に連絡があった。

 中村「ちょっとついていけないかな。大丈夫ですかね」

 富田「すべてをうまくなろうとしているんじゃないの?キックとタックル。それだけが飛び抜けていけば。パスできなくても長所を伸ばせば短所は見えなくなる。この2つでジャパンになればいい」

 中村「あ、そっすね。吹っ切れました」

 4年で主将に就任。チームを大学選手権5連覇に導いた。

  ◇  ◇

 高2時も鹿児島実は花園に出場した。レギュラーSOの中村はベンチにいた。

 「あいつの活躍で花園にみんなを連れて行ったのに、(県大会の)決勝の後の紅白戦で肉離れを起こした。無理してやったんですけど、どんどん広がって、ドクターストップ。試合開始から隣でずっと泣いていました。悔しくて。自分一人ではできない、自分一人で頑張ってもラグビーは勝てない、っていう、そういう話はしましたね」

 新チームでは全員に押されて、主将に就任した。「高2までは自分が引っ張らなきゃ勝てないと言ってたんですけど、主将になって、みんなで勝ちに行くんだということを本人が言い始めた。大きくなったなと感じましたね」。師は成長を感じ取っていた。

 「高2の時は出られず、高3の時はPGを外して負け。だから悔しさがあって、もっと努力してやろうと。そういうところから、あんな男になったんだと思います。花園が成長させたと思いますね」

 磨き続けたキックとタックル。今では巧みなオフロードパスで、トライも演出する。リーダー陣の一員として日本に欠かせぬ存在。その原点は高3で負けて、蹴り続けた姿にあった。“努力のセンス”は大舞台で花開いた。

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