【96】23年目の邂逅 震災直後のセンバツ開催に警察の理解と協力

 「日本高野連理事・田名部和裕 高校野球半世『記』」

 毎年センバツ大会を迎えるこの時期になると1995年1月の阪神・淡路大震災を思い出す。被災地の復興に妨げとならないというのが開催の絶対的な条件だった。

 大学の先輩で、元阪神タイガースの故・村山実さんは損壊がひどかった芦屋市にお住まいで、メディアの取材に「こんな時に高校野球をやるのはどうか、応援団が物見遊山で被災地に入ってこないか」と懸念を話されていた。被災者を代表した声と重く受け止めた。

 大会の運営方針としてチームはすべて大阪市内を宿舎とし、淀川から以西は一切大会関係車両を通さない、を目指した。

 応援団バスは当時JR西日本が管理していた大阪駅西側の空き地に収容、そこから阪神電車で往復してもらうことにした。

 応援団バスは目的地の大阪駅周辺に阪神高速道路を利用する。何度も大阪府警の交通規制課と相談したが、通常でも朝夕の渋滞は大変で、たくさんの大型バスを都心に流し込むのは無謀ともいえる計画だった。

 しかし、大阪府警の担当官は「兵庫が大変な時だから少しでも大阪で引き受けて兵庫の負担を軽減してやらなければ」と親身になってくれた。

 さて、肝心の兵庫県警に提出する交通対策がまとまったのは、大会まで10日に迫った3月16日。電車と振り替え輸送のバスを乗り継いで夜遅く県警本部の交通規制課に着いた。

 待ち受けてくれたのは植村勝次席で、大会の交通対策のファイルにしばらく目を通されたあと「本官は高野連が日頃些細(ささい)な事件でも厳しく身を律して処分していることを知っている。その高野連が作成した案だから信頼しよう。ただ本件は東京の警察庁も心配しているので直接説明に行ってほしい」とひとまず認めてくれた。

 苦心した計画が受け入れられ、これで開催のめどが立ったことに感謝するとともに頭をよぎったのは、厳しかった佐伯達夫会長時代だった。あの厳しさが今の信頼につながったと目頭が熱くなった。

 翌日再び細部を大阪府警と協議、週明けの20日に朝一番の新幹線で霞が関に向かった。僕の到着少し前に地下鉄サリンの事件が起きていた。警察庁は騒然としていて当直に預かってもらうだけになった。

 震災以後ずっと頭にあったのはあの植村さんに改めてお礼が言いたいと思っていた。知人が消息をたどってくれ23年ぶりにお会いした。植村さんから先例のない中、大変な復興対策に心血を注がれた日々のお話を伺った。すでに退職されて十数年、今は川柳を楽しみながら静かな余生を過ごされていた。

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