巨人戦でよく打っていた興津立雄さん 古葉さん、山本浩二も登録名を変えていたね カープOB安仁屋宗八氏が振り返る昭和プロ野球
広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。今では想像もつかない昭和ならではの破天荒なエピソードを語り尽くします。
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むかし、興津立雄さんという強打の内野手がいましてね。主に三塁を守っていて、僕が入団した(1964年)ころは4番を藤井弘さんと交互に打ってましたよ。
特に巨人戦で活躍していたね。僕と一緒で、あのユニホームを見ると燃えたんでしょう。本当によく打っていた。
(興津は1965年5月11日の巨人戦で三回から五回にかけてソロ、2ラン、3ランの史上3人目となる3イニング連続本塁打を記録している)
パワーがあって左中間や右中間へのホームランが多かった。おっつけて打つタイプだったからじゃないかな。ポール際へ打ち込んだ記憶はあまりないね。
三塁と言えば長嶋さんに象徴されるように、野球の花形ポジション。当時のセ・リーグは阪神なら三宅秀史さん、大洋は桑田武さん、国鉄やサンケイ時代の豊田泰光さんが人気だった。
だけど守備はものすごくヘタだったね。腰を痛めていたからゴロを捕るのに苦労していた。一塁がフライを苦手にする藤井さんだったからね。一、三塁は穴という感じでしたよ。
それでもすごいのは、エラーをするとマウンドまで歩いてきて「ハチ、あとでワシがホームラン打って取り返すから我慢しろ」と言って何回もホームランを打ってくれた。
豪快というかね。食事の仕方もそんなところがあった。興津さんは寮に寝泊まりしていたんで、夕食は寮でとる。たまに精肉店で鳥の丸焼きを買ってきて、後輩の若い選手たちにも分けてたね。
寮では2年間一緒に生活したが、私生活では後輩の面倒をよくみていた。グラウンドでは闘志をムキだしにするのに、私服になるとガラッと変わって随分優しい感じの人だった。
興津さんは入団時、本名の「達雄」でプレーしていた。それが途中から登録名を「立雄」に変えてるんですよ。あのころは多くの人が現役時代に登録名を変えていた。古葉さんは毅から竹識。阿南さんは潤三から準郎。山本浩司も浩二へと変えたしね。
衣笠は変えなかったけど、サインの形を変えていたね。文字の流れとかバランスを意識して。そういうのがはやっていたね。それは当時オーナーだった松田恒次さんの影響ですよ。恒次さんは姓名判断とか字画などに凝っていたからね。それでオーナーの知人に見てもらっていた。
それにしても、みんな歴史に名前を残すほどの立派な人たちになったのだから、やっぱり効果があったんでしょう。
僕の場合は安仁屋宗八のまま。変える必要がないと言われた。サインは入団当初「あにや宗八」だったのを大先輩の漆畑勝久さんのアドバイスで漢字に直した程度。ちなみに僕の座右の銘である「一球一心」は漆畑さんからいただいたもの。「投手だったらこういうのがいいんじゃないか」とね。
少し話がそれたけど、興津さんはカッコいい人でもあったね。色が白くてスラっとしていたから外国人みたいだった。古葉さんが広島の市長選に出馬したとき、カウボーイハットをかぶって応援に駆けつけていた。よく似合っていたね。あの姿が忘れられないですよ。
◇興津立雄(おきつ・たつお)1936年5月19日、静岡県出身。現役時代は右投げ右打ちの内野手。181センチ、83キロ。62年までの登録名は達雄。静岡商、専大を経て59年に広島に入団。長距離砲として2年目に自己最多の21本塁打。4番を通算384試合務める。71年に現役引退。通算成績は1227試合出場、打率.258、998安打、145本塁打、495打点。22年6月に左下葉肺腺がんで死去。
◇安仁屋宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ。沖縄県出身。沖縄高(現沖縄尚学)のエースで62年夏に甲子園出場。琉球煙草を経て64年広島に入団。75年阪神に移籍し、同年に最優秀防御率とカムバック賞を受賞。80年に広島へ復帰し、81年引退。実働18年、通算655試合登板、119勝124敗22セーブ。引退後は広島の投手コーチ、2軍監督などを歴任。2013年12月から広島カープOB会長。22年から名誉会長。
