我が家のハートをつかんだフィーバー平山さん カープOB安仁屋宗八が振り返る昭和プロ野球
広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。今では想像もつかない昭和ならではの破天荒なエピソードを語り尽くします。
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かつてフィーバー平山の愛称で親しまれ、広島で活躍した小柄な外野手をご存じだろうか。走攻守がそろい、塀際の魔術師とも言われた平山智さん。
活躍の舞台が昭和30年代だから遠い昔の話にはなるけどね。ただ、僕がカープにお世話になろうと決心したのは、この人の存在があったからなんですよ。
あれは昭和38(1963)年の9月。沖縄高校から琉球煙草に進んだ社会人1年目。あのころまだ現役選手だった平山さんが沖縄の家に来て、僕にカープへの入団を熱心に勧めたんですよ。
当時はドラフト制度導入前の自由競争時代。僕に対しても東映に始まり西鉄、中日、大毎など多くの球団が興味を示してくれていた。
とはいえ本土復帰前。パスポートが必要な沖縄にプロ野球球団の人が来る-と言って、家中みんな慌てたわけですよ。そこでオヤジ(宗英)と四男(宗次郎)、五男(宗太郎)、そして沖縄高校の上里監督と僕とで平山さんの話を聞いた。
僕はそもそもプロ野球の世界に入る気などなかったから気は進まなかった。本土との間には言葉と食事のカベがあると思っていたから。まずもって刺し身などの生ものが嫌い。野菜もね。言葉もそう。標準語が苦手だったんで、何より不安が先にたった。
ところが、平山さんの言葉も何やらたどたどしくて。米国カリフォルニア生まれの日系二世で、片言の日本語しか話せなかったから逆に親近感を覚えてね。この人も同じように言葉のカベを乗り越えてカープで頑張っているのだと。
決め手になったのは『私が最後まで絶対に面倒を見る』という言葉だった。特にオヤジと監督のハートをつかんだみたいでね。オヤジには「あの人やったらだいじょうぶや。1年でいいから頑張って来い」と言われた。
その場で返事はしなかったが、もう広島入りは決まったようなものだったね。
現役の選手だった平山さんがスカウト代わりになったのは、すでにパスポートを持っていたからですよ。当時、パスポートを取得するまで1カ月も2カ月もかかっていたから。
そんな事情があって、シーズン中なのに“おまえ行ってくれんか”と球団から沖縄行きを要請されたらしい。そのおかげで今の僕があるんだけどね。ほかの人だったらカープに入っていたかどうか。
平山さんはスカウトではないから僕のピッチングなど見たこともなかったはず。しかし、球団としては僕が大分鉄道管理局の補強選手として都市対抗野球に出場した際、後楽園球場での救援による3イニングの投球内容を評価してくれていたんでしょう。
カープに入団して1年後に平山さんは現役を引退されたから、選手として重なったのは1年だけだったが、よく声をかけてもらった。ホント、優しい人でね。オヤジと一緒に自宅に招かれて食事をごちそうになったり、沖縄での“約束通り”に随分とかわいがってもらった。
これまでの人生の中で恩人と呼べる人は何人かいるが、第二の故郷でもある広島への“道案内”をしてくれた平山さんは大恩人だと言えるね。
◆安仁屋宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ。沖縄県出身。沖縄高(現沖縄尚学)のエースで62年夏に甲子園出場。琉球煙草を経て64年広島に入団。75年阪神に移籍し、同年に最優秀防御率とカムバック賞を受賞。80年に広島へ復帰し、81年引退。実働18年、通算655試合登板、119勝124敗22セーブ。引退後は広島の投手コーチ、2軍監督などを歴任。2013年12月から広島カープOB会長。22年から名誉会長。





