さらば赤ヘル名将 古葉竹識氏逝く 球団リーグ初V、3度の日本一「球界のお荷物」から黄金期導く

 広島は16日、元監督の古葉竹識氏が12日に死去していたことを発表した。85歳だった。葬儀、告別式は近親者のみで執り行われた。古葉氏は選手として活躍し、監督就任1年目の1975年に創設26年目で悲願のリーグ優勝へ導いた。79、80年には2年連続日本一を達成。「耐えて勝つ」を合言葉に赤ヘル軍団の礎を築いた名将が、輝かしい実績を残し、この世を去った。

 突然の訃報だった。午後、球団から古葉氏が12日に死去していたことが発表された。85歳だった。悲願の初優勝を含めリーグ優勝4度、日本一3度。黄金期を築き、カープを全国区にした名将の逝去に、広島の街は深い悲しみに包まれた。

 1958年に広島に入団。遊撃手としてルーキーイヤーから活躍し、63年には巨人・長嶋茂雄と激しい首位打者争いを演じた。南海で現役引退後、すぐに指導者へと転身。最大の転機は広島でコーチを務めていた1975年だった。

 指揮官だったジョー・ルーツがわずか15試合で帰国した5月、当時の球団代表から打診され監督に就任。39歳の青年監督に率いられた「赤ヘル軍団」は快進撃を開始した。迎えた10月15日・後楽園球場での巨人戦。この試合で球団創設26年目にして初のリーグ制覇を成し遂げ、古葉監督は笑顔で宙を舞った。

 79年には山本浩二、江夏豊らを擁して初の日本一へと導き、翌80年には連覇を達成。広島の第一次黄金期を築き上げ、かつて“球界のお荷物”と揶揄(やゆ)されたチームを猛練習と機動力野球で強者へと変貌させた。

 座右の銘は「耐えて勝つ」-。勝利へのこだわりは誰よりも強く、優しい表情を見せる一方、試合中に選手を厳しく叱責(しっせき)した。鉄拳を振るったこともあった。緊張感を持たせ、“勝負の鬼”として赤ヘル軍団のトップに君臨した。

 ベンチでの立ち位置も「グラウンドが最も見渡せる」と必ず端に立った。相手の球種やサイン、動きなど一挙手一投足を見逃さない。そこからサインを出し選手を動かす姿は、野球ファンの脳裏に刻まれている。

 「試合に勝つためには自己満足じゃいけない。大切なのは相手との比較。打線で言えば4人が勝っていても4人が劣っていればどうにもならない。最低でも6人が勝っていないといけない」

 80年のリーグ制覇時、新幹線の車中でV決定の一報を聞くと松田耕平オーナーと一緒に喜び合った。そして広島駅に降り立つと、大勢のファンが歓喜に酔いしれた。生前、「今も忘れられない光景です」と語っていた古葉氏。広島の街を希望で満たした名将が、歓喜の瞬間を目に焼き付け、静かに旅立った。

 ◆古葉 竹識(こば・たけし)1936年4月22日生まれ。熊本県出身。現役時代は右投げ右打ちの内野手。済々黌から専大、日鉄二瀬を経て、58年広島入団。盗塁王2回(64・68年)、ベストナイン(63年)。70年に南海(現ソフトバンク)移籍後、71年現役引退。通算成績は1501試合、1369安打、44本塁打、334打点、263盗塁、打率・252。

 72~73年の南海コーチから、74年にコーチで広島復帰。75年5月にルーツ監督の辞任を受け、監督就任。同年、球団初優勝を達成。79~80・84年の3度、日本一に輝いた。87~89年は大洋監督。監督通算成績は1801試合873勝791敗137分け、勝率・525。正力賞(80年)。99年殿堂入り。

 2003年に広島市長選に落選。04年は参院選比例代表に自民党公認で出馬し、落選した。東京新大学リーグの東京国際大の監督も務めた。

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