夏の東洋大姫路が復活 40年ぶり春夏連続甲子園 泥くさい「昭和の野球」で頂点!岡田監督「これが一番うれしい」
「高校野球兵庫大会・決勝、東洋大姫路7-6報徳学園」(28日、ほっともっとフィールド神戸)
兵庫大会の決勝が行われ、東洋大姫路が報徳学園を7-6で下して2011年以来14年ぶり13度目の夏の甲子園出場を決めた。2019年に履正社を率いて夏の甲子園優勝を果たしたOBの岡田龍生監督(64)が、就任3年目で早くも1985年以来40年ぶりとなる、春夏連続甲子園出場を達成。名将の手腕に導かれ、“夏の東洋”が復活を遂げ た。
岡田監督は三塁側スタンドに満面の笑みで両手を掲げた。母校再建を託された重圧を押しのけてつかんだ頂点。指揮官自身が“夏の東洋”復活を誰よりも喜んだ。
「これが一番うれしいですね。覚悟をして監督を引き受けたので結果が出てよかった」
12安打7得点と強打の岡田野球を見せつけた。打線をけん引したのは父が元阪神で代打の神様・桧山進次郎氏のファンだったことが名前の由来の4番・白鳥翔哉真(ひやま)外野手(3年)。「なんとしてでも決めようと思った」と、同点の六回2死二塁で決勝の左前適時打を放つなど得点圏で2安打をマーク。チームは計4犠打と、2桁安打を放ちながらも着実に点を奪いにいく泥くさい攻撃で、勝利への執念をにじませた。
大会前のことだ。OBの指揮官は「昭和の野球がしたい。昔の東洋の野球で頑張りたい」と選手に訴えた。初めて夏の全国優勝を果たした1977年、1年生だった岡田監督の目には今でも当時の光景が焼き付いている。白球に食らいつき、泥まみれになって守り勝つ野球。「あのチームは強すぎて。夏の優勝ってこんなんなんやと」。優勝パレードが行われた姫路城周辺は人海となり、先輩たちは地元のヒーローとして脚光を浴びた。
監督として母校に戻り、選手が淡々と野球をやる姿にもどかしさを感じた。「帰ってきて一番さみしかったのが“夏の東洋”と言われなくなっていたこと。気持ちを出して。東洋の野球っていうのはそういう野球。そういう気持ちを持ってほしいとOBとしての思いです」。2度のリードを追いつかれ、九回は1点差に迫られながらも死闘を制した。土にまみれたユニホームで校歌を歌うナインが、“夏の東洋”復活を印象づけた。
秋春近畿大会も優勝し、県内無敗の20連勝。同一年度の秋春夏の兵庫県制覇は18年・明石商以来史上4校目の快挙となった。今春センバツは2回戦で敗れ「もう一回甲子園で頑張りたい」と指揮官。再び姫路に深紅の大優勝旗を持ち帰る。
◆夏の東洋 1969年夏に甲子園初出場を果たし、72~74年はセンバツには出場できなかったが、夏は3年連続甲子園に出場した。1977年夏は初の全国制覇も達成。70年代は夏の兵庫の主役だった。また夏の甲子園でも12回の出場中、初戦敗退はわずか3度。31試合を戦って20勝11敗、勝率・645を誇る。



