南海ホークスお荷物球団の悲劇 サイン会のギャラは800円の食券とタオル1枚 身売りへまっしぐら
かつてパ・リーグの王者であり、お荷物球団とも言われた今はなき南海ホークス(現ソフトバンク)。その低迷期を経験した選手の一人でもある岡義朗氏(デイリースポーツ評論家)が振り返る愛すべき弱小チームの“悲劇”とは-。
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僕がいたころの南海はお客さんも少なくてね。オフのイベントもカドさん(門田博光)やドカベン(香川伸行)、藤原(満)さんがちょろっとあるくらいでレギュラークラスでも数えるほど。
3年半の在籍中に1回だけサイン会が回ってきたけど、球団からもらったのはタオル1枚と大阪球場での食券。それも800円分。「これで何でも食ってくれ」ってね。ナメとんかい!(笑い)そんな時代だったね。カープでもしっかりギャラは払ってくれたもんですよ。
あの当時はセ・リーグに比べてパ・リーグはどこも観客が少なかったからね。球団を運営するのは大変だったと思う。僕が広島から南海へ移籍したのは1980年のシーズン中。チームはすでに低迷期入っていて、かつてのような王者の風格はなかったですよ。
移籍した80年は広瀬(叔功)さんの監督3年目で81、82年はブレイザー監督。いずれも結果を出せず、83年から穴吹(義雄)さんが監督になった。
広瀬さんから直接バトンを受けると思っていた穴吹さんは時間がかかった分、就任当初から張り切っていたね。伝統ある強い南海を蘇らせたいと思っていたんでしょう。
穴吹さんは『ID野球』は自分が取り入れたと思っていたほど、結構、細かい野球を好んでいましたね。だからキャンプからミーティング漬けだった。
例えば3勤1休の練習日程だったとしたら、練習日の3日間は夕食後に9時までミーティング。初日は野手、投手に分かれてコーチが軸になっての勉強会。
2日目はマスコミに加わってもらうこともあったね。広島の呉キャンプに取材に来ている担当記者。監督の発案だけど、そこで何かしゃべってもらい、ファンサービスや観客動員の参考にするという狙いだった。
ただね。「球場でポルノ映画を流したらどうだ?」みたいなとんでもない意見を言う人間がいたりしてね。もうなんでもありという感じ。お笑いぐさもいいとこですよ。それほど話題の少ない苦しい時代ではあったね。
そして最終日は監督が総まとめをする。とにかくよくしゃべる監督だった。しかし、強くならない。いかんせん戦力層が薄かったですよ。
そんな中でカドさんは頑張っていたけど、いくらホームランを打っても勝てない歯がゆさ、ジレンマがあったと思う。
キャッチャーはドカベンが使われるケースもあった。物おじしない人懐っこい男で、あの張本(勲)さんに向かって「バットを下さい」と平気で言って実際にもらっていたからね。
打撃には非凡なものがあって、バットをうまく腰に乗せて打つタイプ。でもリード面には?マークをつけられていた。打者を追い込んだあと変化球で打ち取ろうとしてよく痛打されたが、自分が打てないからというのがその理由。“お前と一緒にするな”って味方からやじられてたね。ホントに愛嬌のある選手でしたよ。
まあ楽しい時期ではあった。ただ短い在籍期間ながら南海へ移って痛切に感じたのは、プロ野球選手である以上、1試合でも多く出て、少しでも数字を残さないといけないということ。チームが弱くても観衆に恵まれなくても、必死になってやるべきことはやらないといけない。
常に緊張感を保っていた日本一のチームから斜陽のチームへ。でも結果としていい勉強になりましたよ。そういう意味ではありがたいと思えるトレードでしたね。




