元阪急の長池徳士氏 西本幸雄監督の退陣とともに「僕の野球人生も終わりました」 本塁打王3度のスラッガーは太く短く

 長池徳士氏
阪急時代の西本幸雄監督
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 元阪急ブレーブス(現オリックス)の4番で、本塁打王と打点王を各3度獲得した長池徳士氏(80)は1973年を自身にとっての大きな節目と位置づける。三冠王を逃したシーズンだが、恩師西本幸雄監督の退任には大きなショックを受けたという。

 この年は打撃3部門すべてのタイトルを独占する絶好のチャンスで、前期終了時点の打率は・371、本塁打24、打点58で、すべてトップに立っていた。

 春先から好調をキープする張本勲に土井正博も加えた首位打者争いでは7月28日に打率を・376まで伸ばし、南海・野村克也以来の三冠王が見えてきていた。

 しかし、最終成績は43本塁打、109打点の二冠に終わっている。首位打者は終始安定的な成績を残していた同僚の加藤秀司が・337で獲得した。自身は・313の4位だった。

 打者にとって最高の勲章ともいえる三冠王を逃したことに対し、長池氏からは意外な言葉が返ってきた。

 「(取りたいのは)やっぱりホームラン王ですよ。43本打って僕にとっては最高の年になりましたからね。打率は頭になかった。(首位打者のタイトルを逃しても)何とも思わなかった」

 こだわるのは、あくまでもホームラン。本塁打のタイトルだった。カウントで追い込まれるまでは常に本塁打を狙っていた。長打が可能な球しか打たない。ヒットの延長線上に本塁打があるという思考もなかった。

 「ヒットを狙いにいくと、当てにいくから打撃が小さくなる。だからまずホームランを狙う。それで打率が落ちるという考えは、人にもよるだろうけど僕にはなかった」

 73年は三冠王に最も近づいたシーズンだったが、この大きな“勲章”にはまったく未練はなかった。

 それよりも大きなショックを受けたのは、恩師でもある西本幸雄監督の突然の辞任だった。プレーオフで南海に敗れた悔しさもあった。

 「辞めると言われたときは涙が出た。来年こそは(優勝して打倒巨人)と思ってましたからね。この年に僕の野球人生も終わりましたよ」

 翌74年も打点王(96打点)に輝き、4番打者として十分な働きを見せた。それでも振り返ってみると、すでに野球人生の“終盤”に入っていたと長池氏はいう。

 西鉄とのトレードが水面下で進んでいたのが、74年のシーズンオフ。東尾修プラス柳田豊との2対1という大型トレードだった。

 結果的にこの話は消滅したが、初優勝からチームの主軸を担い続けてきた長池が、新しいリーダーである上田利治監督のチーム構想から外れ始めているのは明白だった。

 さらに翌75年からスタートした指名打者制度での出場に限定されるようになり、守備位置につくこともほとんどなくなった。

 「この選手は守備がダメなんですよと、烙印を押されたようなもんですからね」

 制度導入1年目はベストナイン(指名打者部門)に選ばれたが、気力は次第に萎えていった。

 走力、守備力に脚光を集めたヤングブレーブ時代が懐かしい。打球がセンターへ飛べば走者は三塁でストップした。西本監督からは「本塁へはダイレクトで投げてもいい」と言われていた。

 守備があって打撃がある。守って打ってこそ、野手であり、打者だと思っていた。

 「張本(勲)さんもDHで成績がガタンと落ちたけど、巨人で(再度外野の守備につくようになり)復活したでしょう。気力がないと体は動かない。力は出ないものです」

 長池氏は自身の野球キャリアを「10年」と表現する。実際には14年だが、現役晩年はほとんど計算に入っていない。太くて短い野球人生だったという。

(デイリースポーツ/宮田匡二)

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