村田兆治氏死去 プロ通算215勝 フォーク決め球に数々のタイトルを獲得

 恩師・金田正一監督と=1990年9月
 現役最後の登板を終え、ロッテナインに胴上げされるも勢い余って裏返し=1990年10月13日
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 ロッテのエースとして活躍した村田兆治氏が11日、死去した。72歳。同日午前3時10分ごろ、東京都世田谷区成城の村田氏宅から出火し、村田氏は2階から意識不明の状態で見つかり、搬送先の病院で死亡が確認された。死因は煙を吸ったことによる一酸化炭素(CO)中毒とみられる。現役時代には215勝を挙げ、名球会のメンバーにも名を連ねた右腕の、衝撃的な最期となった。

  ◇  ◇

 村田氏のプロ生活は1968年から始まった。広島・福山電波工高(現近大広島高福山)からドラフト1位で東京(現ロッテ)に入団。頭角を現した2年目以降は先発、救援とフル回転し、「マサカリ投法」と呼ばれた独特のフォームで球界を代表する投手となった。

 長身から投げ下ろす速球は150キロを超えた。決め球フォークボールは、“元祖”杉下茂氏も認める強烈な落差を誇った。75年に最多セーブ、81年には最多勝に輝き、最多奪三振は4度、最優秀防御率は3度獲得した。通算148暴投はプロ野球最多記録でもある。

 82年に右肘を痛めた。全国各地の名医と呼ばれる元へ足を運んでマッサージや電気治療、はり・きゅうを受けた。しかし、完治には至らず、翌年に当時はまだ珍しかった靱帯(じんたい)再建手術(通称トミー・ジョン手術)を米国で受けた。84年終盤に復帰。85年は日曜日ごとに先発するローテーションで「サンデー兆治」と呼ばれ、17勝を挙げて復活した。

 肘にメスを入れた決断は、投手の致命的故障から復活への道標となった。その後、多くの投手が異常の早期に手術をしているのを見て「そういう意味では俺の手術は価値があったということになるかな」と話した。

 89年に通算200勝を達成し、90年限りで現役を引退。95~97年年はダイエー(現ソフトバンク)で1軍のコーチを務めた。引退後も投球練習に励み、OB戦では130キロを投げた。晩年は全国の島を巡り、子どもに野球を教えた。華々しい野球人生を歩み、名声を手にしたが、その最期はあまりにも悲しいものとなった。

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