台湾・嘉農が甲子園に残したものとは
映画「KANO~1931海の向こうの甲子園~」が昨年は台湾、今年は日本でヒットした。KANOとは台湾の嘉義農林学校(現国立嘉義大学)の愛称で、映画では日本統治下にあった時代、初出場で準優勝を果たした快進撃が描かれている。当時の監督は、松山商業出身の近藤兵太郎。“外地”の学校を率い、民族の垣根を越えた近藤氏の足跡、そして嘉義農林の歴史が今に伝えるものを、書く。
歴史は、巡る。その戦いぶりを「天下の嘉農」とたたえられた、嘉義農林。当時を描いた映画が昨年来台湾、そして日本でヒットした。1931年夏、監督は近藤兵太郎だった。
その2年後の33年以来、春に限れば81年というブランクを経て、松山東、当時の松山中学が、今春センバツに戻ってくることに、縁を感じる向きもあるかもしれない。
近藤兵太郎の青年期までを少し、整理する。
1888年、松山市に生まれる。
1903年、松山商入学。
1908年、卒業。専売局松山支社勤務。先輩コーチ就任。
1918年、部の存続危機に「必勝」を約束、正式にコーチ(今の監督)となる。
近藤は後に「正岡子規を顕彰する会」を立ち上げる。なぜか。
子規は一高(現東大教養学部など)で覚えた野球を、母校・松山中に伝え、1892年、野球部創設の礎を築いた。その子規が没したのが02年。この年に松山商および同校野球部が誕生する。
できて間もない野球部に2人のコーチがいた。その1人が杉浦忠雄(松山中~一高)だった。近藤に“野球人格”を植え付けた人物だ。
18年、部の存続危機に近藤監督が示した「必勝」の条件は3つ。「松山中攻略」、「四国制覇」、「全国制覇」だった。その7年後、松山商はセンバツ優勝を果たし、近藤監督は勇退する。
子規を起点に受け継いだ野球は、松山商を通じて全国にその名をとどろかせ、後には台湾にも大輪の花を咲かせた。その恩義を近藤は生涯、忘れることがなかったのだ。
近藤の晩年、新田の監督時代(50~54年)に指導を受け、早大に進んだ亀田健氏は「武士道プラスID野球」と評する。
猛烈なスパルタで、ノックの際、亀田氏は「監督が憎くて」返球を近藤監督の頭部付近に投げた時「ニヤリ、と笑いましたね」と回想する。
ただ厳しいだけではない。自身でルールの原書などを取り寄せ、「こっぴどい罵声の中に、『パーセンテージ』とか『セオリー』なんて英語が交じるのがまた新鮮でした」とも。
「近藤兵太郎をたたえる会」が松山にある。会長で、亀田氏と同じく新田での教え子だった林司朗氏は「『台湾にははだしで塁間を3歩半で走るのがおった』という逸話も聞きました。ほとんど日本人しかしなかった野球を台湾全土に広めた功績もある」と話す。
会員で松山商元監督・窪田欣也氏は「松山商初代監督ですから。台湾で親しまれてますが、国内でそれに及ばないのは残念です」と、再評価される日を心待ちにしている。





