古谷代表自殺後自ら渡米 大リーグ本格視察後、球団改革に着手元阪神社長語る(4)

パ・リーグプレーオフで日本シリーズ進出を決め、ナインから胴上げされる近鉄・西本幸雄監督=1980年10月18日
日本シリーズ・近鉄対ヤクルト戦の始球式に登板する西本幸雄氏=2001年
キャンプ視察に訪れた中内功オーナー(右)から「優勝しなさい」と激を飛ばされるダイエー・根本陸夫監督(中)=1993年2月7日
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 元阪神球団社長の三好一彦氏(90)が、かつて全力を注いだ球団経営を振り返り、今に伝え遺す阪神昔話「三好一彦の遺言」の第4話は「球団改革」。組織のあり方や業務分掌を見直し、整理したうえで球団本部制を導入するなど、現在に至るフロント組織の土台を作った。

 球団社長就任以降、三好は数々の球団改革を断行した。

 ラッキーゾーンの撤廃、タイガーデン建設に見られるファームの充実、情報収集を目的とした大リーグ球団とのネットワーク作りにも力を入れた。

 友好関係を築いたのはデトロイト・タイガース、ニューヨーク・メッツ、ボルチモア・オリオールズ、ロサンゼルス・ドジャース、ミネソタ・ツインズの5球団。

 三好は社長就任に先がけ、大リーグのキャンプ地に久万オーナーの特命を受けて社外取締役の立場で渡米していた。それは過去の過ちを省みて、球団としての組織力を高めるのが目的だった。

 1988年のシーズン中、バースの契約問題がこじれ、心労を重ねた当時の古谷真吾球団代表が自殺する不幸な出来事があった。本社はこの一件を重く見た。

 三好「その年の暮れに久万オーナー、見掛球団社長、弁護士と私で反省会を開いたんです。その会議で私が、外国人選手を担当や通訳に任せ切っていたのがいけなかった、球団としてのルートを築き、有能な担当者を探すべきだと。そこで“お前が行って来い”となったんです」

 大リーグ視察の成果は著しく、特に球団組織における業務・職務分掌に学ぶべき点が多かった。

 三好は帰国し、大リーグを参考にしたタイガースモデルの「球団運営の構図」をレポートにまとめ、マニュアルとした。

 その際に次のような注釈も付記した。

 (1)球団組織は、ビジネスオペレーションとベースボールオペレーションの2つに大別される。

 ビジネスオペレーションは総務・人事・経理など一般企業の営業・管理部門にあたる。ベースボールオペレーションは一般企業の現業部門にあたる。

 (2)ベースボールオペレーションのトップはゼネラルマネジャー(GM)で人集め(編成)、人作り(2軍)、人使い(1軍)を統括する。

 つまりベースボールオペレーションが球団本部に相当するもので、その統括責任者がGMであり、本部長であるとした。

 以前から三好が模索していた新組織の球団本部が、大リーグ球団が採用する業務形態とほぼ同質であることも、この渡米により確認することができた。

 その後、三好は96年に西山和良を球団本部長、横溝桂を編成部長に抜てき。ユニホーム組を初めて取締役に昇格させる異例の人事を行っている。

 「人集め」「人作り」「人使い」という概念は、球団のフロント業務を見つめ直すという作業から生まれたものだった。

 三好はかつて「水面下の立場」で金田正泰、吉田義男、後藤次男、D・ブレイザー、中西太、安藤(統男)統夫、村山実と続く監督交代劇を見てきた。

 長くて3年、早ければ1年で1軍の監督が代わる。繰り返されるその現実に強い疑問を抱くようになった。

 三好「(2度目の)吉田監督の時に気づいたのは、すべてを監督に任せっきりだったということです。フロントに主体性がない。監督が交代するたびに一からやり直し。これでいいのかと。球団としてチームを運営する組織を、きっちり作る必要があると思うようになりました」

 86年、三好はチーム運営の勉強を始めた。面識のあった名将西本幸雄氏を訪ね、「人作り」と「人使い」の極意を教わり、西武に黄金期をもたらした根本陸夫からは「人集め」と「人作り」の要諦を学んだ。

 三好「人集めはスカウト、人作りは2軍、人使いは1軍の仕事。これらをひとまとめにして球団本部制とし、本部長をその司令塔とすることにしました」

 球団本部制は87年、代表の古谷を本部長として試行し、三好の社長就任後、本格的に導入した。

 組織の原型が築かれて以来、20数年。現在、総務・事業・球団による3本部制が採用され、球団本部長は嶌村聡が務めている。

(敬称略/デイリースポーツ・宮田匡二)

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