引退桧山の入団秘話「牙むく若虎」だった

 阪急京都本線の西院駅で降り、小豆色の車両が奏でる音を聞きながら歩いて取材に通ってから、もう20年以上が過ぎた。

 訪ねた先に桧山隆一郎さんがいた。今季限りで現役を引退する阪神・桧山進次郎選手のお父さんだ。野球のすべてを伝え、その道筋を指し示し、生きていく力を与えた人物。「私から見たらまだまだです」。記者に対し、息子をほめるような言葉はほとんどなかった。注ぐ目は常に厳しかったように思う。

 タテジマを身にまとって22シーズン。多くのファンに愛され、その最後を惜しまれる背番号24の現役人生は、しかし順風満帆とは決して言えなかった。最初は内野手登録もすぐに外野に転向となり、亀山や新庄らとのレギュラー争いに立ち向かう。助っ人外国人選手を含め次々と現れるライバルたちと戦い、時には敗れもした。

 チーム自体も「暗黒時代」と呼ばれる低迷期で、内外の混乱がグラウンドに影を落とした時期でもあった。プロ入り10年間で監督は代行も合わせて5人。ヤクルトと優勝争いを展開した入団1年目の1992年を除き、世代交代と戦力構成の歯車が微妙にずれたまま過ぎる。

 その時代のど真ん中を歩き続け、桧山が桧山であり続けられた理由‐。温和なイメージすらある最近の彼からは想像が難しいかもしれないが、そこにはやはり、人間の芯を成す闘争の本能が強くあったからだと考えている。

 阪神からドラフト4位で指名された時のことだ。

 東洋大の連絡先に電話して話を聞いた。1位指名の萩原誠(大阪桐蔭)や2位指名の久慈照嘉(日本石油)らの取材が先行した後で、失礼ながら直接足を運ぶ時間がなかった。余裕のないバタバタしている空気が伝わったのか、桧山は「大丈夫ですよ。ゆっくり何でも聞いてください」と声を掛けてくれた。

 そして、はっきり言った。「指名順位では町田の方が上でしたけど、彼には決して負けているとは思いません。1位と4位の違いはこれから変えます」。

 同じ東都大学リーグでしのぎを削り合った専修大の町田公二郎選手。彼は広島カープから1位指名されていた。桧山とは本塁打、打点など4年間の通算成績で互いに優劣つけがたいものだった。両者の指名順位の差は、阪神、広島のドラフト戦略の違いに過ぎないのだが、桧山はあえてそこに触れて「負けません」と言葉を重ねた。

 次々と立ち現れるライバルたちとの競争があり、自身のけがや故障とも闘い、マスコミに一挙手一投足を追われる騒然としたこの球団特有の雰囲気をまといながら、桧山は小さくとも消えることのない闘争の炎を大事に大事に守り、育て続けてきた選手だ。

 時には敗れもした。ただし退かなかった。いつまでも老けないその面相と、古都出身であることと引っかけて、ファンから「悠久の若虎」と称される彼を、私なら「牙むく若虎」と呼びたい。向こう傷のいくつかを受け、退かず自分の道を歩いてきた22シーズンは、見せることなくとも常にどこかで牙をむいていたと思う。

 隆一郎さんは染色の仕事をされていた。技術と信頼を積み重ね、8年前、75歳で他界した。取材した時、息子をほめることはなかったが、これ以上なく誇りに感じていることは、まだ子供のいなかった私にも分かった。

(デイリースポーツ・善積健也)

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