母校監督に就任 元ヤクルト山本樹監督

 関西六大学野球リーグの龍谷大野球部監督に、元ヤクルトの山本樹氏(42)が就任した。プロ時代は左の中継ぎエースとして1997、01年の日本一を経験。しかしその現役生活は波瀾(はらん)万丈だった。「ファーム暮らしで芽が出ない時代と、日本シリーズで投げて勝利投手になり、日本一という最高の喜びの両方を味わった」と、天国と地獄を見た。同大コーチを経て指揮官に。これまでの経験を踏まえ、今、学生たちに伝えたいことは何かを聞いた。

 ‐今シーズンから母校の監督に就任されました。プロで実績を残した選手が、あえてアマチュアで指導者となる道を選んだのはなぜですか。

 「自分がプロで学んだことをアマチュア界に伝えられたら、それが野球に対する恩返しになるという気持ちと、波瀾万丈だった自分の足跡を誰かに見てもらいたいという気持ちからでした。13年間のプロ生活でいい指導者に巡り合い、学んだことを伝えたかった」

 ‐08年に龍谷大のコーチとして、母校で指導を始めた時の状況は。

 「最初は指導はほとんどせず、選手の状態を見ることから始めました。選手のことを理解せず間違えた指導をしてはいけない。彼らは何を求め、何が課題で、何に苦しんでいるのかを見つけることが先決でした」

 ‐個々の選手、1人1人の課題ですか。

 「メンタルか技術かというと、個人で違う。三菱重工神戸を経てヤクルトに入った古野(正人)という投手がいるんですが、彼は僕がコーチを始めた年の4年生。それまで3年間、リーグ戦で1勝もできなかったんです。でも4年の春と秋のリーグで合計9勝しました。初めて彼を見た時、なぜ3年間1勝もできなかったんだろうと思った。技術は大学で十分通用するレベル。じゃあメンタルが課題だなと。練習でできることが試合でできない。それが明らかなポイントでした」

 ‐それでメンタルを鍛えることにしたんですね。でもどうやって。

 「オープン戦で、監督(椹木寛氏=当時)に『古野を1分、1秒でも長くマウンドにいさせてください』とお願いした。いくら練習しても、マウンド度胸はマウンドでしかつくれない。『5点取られても10点取られても構わない。責めないから、好きに投げろ』と投げさせた。そしたら徐々に自信がつき、試合ごとにブルペンの投球に近づいていった。マウンドで自分をコントロールできるようになれました」

 ‐たとえオープン戦でも、どれだけ打たれても我慢するのは難しいですよね。ほかの投手を使いたい事情もありますし。

 「選手が成長するまでどれだけ我慢できるかが指導のカギです。こちらがあきらめれば成長はない。小さくてもいいから前へ進んでいる以上、それが成長です。自分もそれをヤクルト時代に野村(克也)元監督にしてもらったので」

 ‐山本監督自身もプロでの現役時代、結果が出せず苦労した時代があったとか。

 「丸3年ですね。俗にエレベーター選手と表現されるんだけど、1軍と2軍を入ったり来たりする選手。情けなくてつらくて。自分で自分をばかにして、追いつめたこともあった。だけど今はあの3年間に感謝しています。指導者としての財産を提供された」

 ◆山本監督は野村ヤクルトの時代、セットアッパーとして01年日本シリーズに登板。第5戦で勝利投手になり、日本一に貢献した。しかし決してエリート街道を歩んだわけではない。入団後の数年間は「辞めたい」と思うほど伸び悩む時期が続いた。

 ‐つらかった思い出を聞かせて下さい。

 「当時、春季キャンプは米国アリゾナ州のユマでしたから、飛行機でキャンプ地へ行くんです。1年目は『頑張るぞ』と意気込んで旅立った。しかし2年目は機内で『嫌だな…また去年みたいな成績では困るな。でも今年は頑張るぞ』と。3年目は『1、2年目は頑張ったけど全然ダメだったな』と気が重かった。ついには『飛行機が墜落したら、苦しむ必要がないのに』とまで考えていた。途中、飛行機がエアポケットに入ってドーンと落下した時、恐怖におびえる人の中で、自分だけニヤリと笑っていたんです。われに返り、怖くなりました。うつになるほど悩んでいたんです」

 ‐結果が出ない時期から脱出できたのは。

 「同じ結果を繰り返して4年目に入った時、今までやっていたことと真逆のことをしてみたんです。それまで3年間は頑張ろうと思ってやっていたのに、結果は頑張れていなかった。じゃあ、どれだけ打たれても構わない。ずっと2軍でいい。いつ辞めてもいいや、と。すると結果は1年間、1軍定着ですよ。これは、自分が耐えられないプレッシャーを自分に与えてはいけないということだったんです」

 ‐今までの価値観を捨て、全く逆をするというのは簡単ではないと思いますが。発想の転換をするには、どういう転機があったのですか。

 「キャンプのミーティングで、野村監督に1軍全員の前で『山本、お前は3年間、同じことを繰り返している。ばかだ。もう辞めろ』と言われたんです。『お前、こんなピッチングして、よう家に帰って子供の顔が拝めるなあ』とか。僕は『こんな恥ずかしい思いをするくらいならもうええわ。辞めたるわ』と思った。今思えば、それが野村さんの人を動かす作戦というか、押してダメなら引いてみろという方法だったんだと思います。僕が気持ちの弱い選手だと分かっていたんでしょう。だから『適当でいいや』と考えさせようとしたんだと思います」

 ‐その“変身”があったからこそ、01年は日本シリーズで登板し、日本一に貢献という栄光を手にした。そんな話も、大学の部員にしますか。

 「日本シリーズでは大舞台、大観衆の前で平気で投げることができた。それは自分が人よりたくさん失敗を積んだからだと思います。失敗に対する免疫が落ちただけ。失敗する自分を想像しても怖くない。3年間の失敗が、僕を日本シリーズのマウンドに上げてくれたということです」

 ‐苦しみ、もがいた結果、つかんだものは大きかった。

 「だから龍谷大の部員にも、失敗の数が多いほど一流に近づくと話しています。失敗を恐れるなと。モーションを起こさなければボールは投げられない。昨日もミーティングで、そう話したんですよ」

 ‐龍谷大野球部監督として、関西六大学リーグに挑む1年目の抱負を。

 「新聞的には、全国大会に出て優勝と言った方がいいんでしょうが、僕の中でリーグ戦の結果は目標ではありません。あるのは単純な目標だけ。それは今日できることを今日、一生懸命やること。あの時こうしておけば良かった、というのをなくすだけです」

 ‐グラウンドを見ると、4年生が打撃投手を務めたり、協力し合って楽しそうに練習を進めたりする姿が印象的です。

 「開幕を控えた今、何をすればいいかということです。時間ができれば1球、1打でも多く練習する方がいい。そのためには1年生も4年生もみんなで練習し、みんなで裏方作業をすればいい。4年生が1年生のために打撃投手をしたり球拾いをしたり。そうすれば少ない時間で密度を上げることができる」

 ‐1日1日の練習をこなすことが大切ということですね。

 「目に見えないチリを集めて山にする。今日よく頑張ったね、満足だね、ということが、僕にとっては全国制覇につながるんです」

 山本 樹(やまもと・たつき)1970年8月31日生まれ、42歳。岡山県倉敷市出身。玉野光南から龍谷大を経てドラフト4位で93年にヤクルト入団。主に左の中継ぎ投手として活躍し、97、01年の日本一に貢献した。05年に引退。13年間の現役生活で通算成績は27勝37敗10セーブ。08年から龍谷大コーチを務めていた。

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