【永山貞義よもやま話】「ならイズム」がVを呼ぶ 新井監督のためならチーム一丸
まずもっては、野球ファンを熱狂させた今年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の話から切り出してみた。この一大イベントで侍ジャパンが優勝したのは、栗山英樹監督の手腕抜きでは語れないだろう。
それを大ざっぱに分析すれば、一騎当千の選手をまとめ上げた統率力、さらには優勝までの道筋を見通した戦略と、鋭い勝負勘を連発した戦術。選手との合作で描いた優勝までの奇想天外なストーリーは、誰しも漫画以上の傑作と思ったはずである。
その功績の1歩目が日本ハムの監督時代、二刀流の使い手として育てた大谷翔平を出場させたことではなかろうか。大谷は「栗山さんのためなら」と快諾し、同じ日本ハム出身のダルビッシュも「大谷が出るなら」と歩調を合わせた。
作家の童門冬二さんによると、こうした「この人のやることなら協力する」という動機を生ませる導因を、中国の古い言葉で「風度」といったらしい。童門さんはこれを「ならイズム」と表現し、人望、愛嬌(あいきょう)、魅力、カリスマ性などの要素が混合した人物が有するものと説いた。
この「ならイズム」なるものを、カープで初めてお目に掛かったのは、山本浩二監督の第1次政権が誕生した1989年。その中で特に目についたのが、75年に初優勝した時の仲間、大下剛史ヘッドコーチ、水谷実雄打撃コーチ、池谷公二郎投手コーチの粉骨砕身の奮闘ぶりだった。
参謀役の大下ヘッドコーチは戦略、戦術の両面で腕を振るったほか、しごきともいえる厳しい練習を課して、選手の再生と成長を促した。また水谷コーチは昼夜惜しまず江藤智、前田智徳らを指導して一人前にしたし、池谷コーチも金石昭人、紀藤真琴といった若手を育てた。
さらに91年の途中、津田恒美が脳腫瘍で現場から去った後、全員が「津田のために」と一丸となって6度目のリーグ優勝を飾ったのも、「ならイズム」でくくってもいい出来事だったのではなかろうか。
それから30年余りを経た今年、新指揮官の新井貴浩監督に対するナインの「ならイズム」を見て、ファン一同、連日のように目を細めているはずである。
まず、このイズムを新聞で目にしたのは昨秋、国内フリーエージェント(FA)権を獲得した際の西川龍馬のコメント。カープに残留した理由について、「(新井さんには)めちゃくちゃ、お世話になった」と恩義を語り、「故障や低迷で迷惑をかけんように」と滅私奉公を誓っている。
また菊池涼介は首脳陣と選手のパイプ役としても尽力。若手に守備の助言や手本を示したりしている。さらには松山竜平、田中広輔、上本崇司、野間峻祥ら、かつての弟分らの必死な姿からも、この匂いが漂ってくる。こんなあれも、これもが新井監督の人望、愛嬌、魅力などに対する敬愛を示す行為なのだろう。
かくして開幕前、下馬評の低かったチームは、これらの「ならイズム」と新井監督が選手を思いやる「温情野球」とが相まって、戦うたびに成長。球宴直前を5連勝で終え、首位の阪神とは1ゲーム差の2位で折り返す大健闘である。
過去9度、リーグ優勝した経緯を調べると、86年は8月、巨人との最大5・5ゲーム差を逆転。91年も8月、中日との4・5ゲーム差をひっくり返している。とすると、今の立ち位置からすればAクラスどころか、優勝の夢まで見てもよさそう。今年の夏は目が離せなくなったカープの躍進によって、一段と熱くなりそうだ。(元中国新聞記者)
◆永山 貞義(ながやま・さだよし)1949年2月、広島県海田町生まれ。広島商-法大と進んだ後、72年、中国新聞社に入社。カープには初優勝した75年夏から30年以上関わり、コラムの「球炎」は通算19年担当。運動部長を経て編集委員。現在は契約社員の囲碁担当で地元大会の観戦記などを書いている。広島商時代の66年、夏の甲子園大会に3番打者として出場。優勝候補に挙げられたが、1回戦で桐生(群馬)に敗れた。カープ監督を務めた故・三村敏之氏は同期。阪神で活躍した山本和行氏は一つ下でエースだった。





