小津正次郎の唄

 「今夜、時間作れんか?」

 小津正次郎から電話をもらったのは昭和54年の年が明け、江川卓と小林繁の交換トレード騒動もようやく静けさを取り戻し、日本各地から雪解けのニュースが聞かれだした頃のように思う。

 「たまには飲まんか」と言われたのも久々で、待ち合わせの時間と店の名前をいい、電話が切れた。

 「小津さんは俺に何かを吐き出したいのかな」

 といつもと違う静かな電話の声にそう思った。

 晩冬の北新地に小雨が寂しそうに降る。コートの襟を首に巻きつけながら聞かされたクラブのドアを開けると小津さんはもう席についていた。

 江川卓ドラフト会議の前日、巨人と契約(1978年11月21日)-野球機構NOで巨人の契約白紙撤回-ドラフト会議(同22日)南海、近鉄、ロッテと阪神の4球団が江川を1位指名。交渉権阪神獲得-江川阪神入り(阪神と契約)-江川卓(阪神)と小林繁(巨人)の衝撃の1対1交換トレード発表(1979年1月31日)

 だれがこんなしっちゃかめちゃかなシナリオを書いたのか、一連の江川騒動に、もうひとりの主役だった阪神タイガース球団社長・小津正次郎はまだ疲労が取りきれていなかったのかもしれない。

 「おう、仕事は終わったのか。そうか(江川問題も片が付いたから)書く記事もないか。わははは」

 と小津は高笑いしたが、顔で笑って、心で沈んでいたような印象が強く。

 「疲れとれましたか」

 と挨拶代わりで聞くと

 「あんたら記者から朝から晩まで追っかけられんようになったからな。今日は仕事の話は抜きにしろ。江川の一件は墓場まで持ってゆく。なんぼ粘っても江川卓については今後、1文字も言わんから」

 と交わして

 「おい、唄うぞ」

 とそばにいたママにマイクを求めた。

 小津は都はるみの「大阪しぐれ」を唄った。

 ♪ひとりで生きてくなんて できないわ

 なんだ、何かを喋りたかったのではないのか。肩透かしをくった思いになったが、なに、酒も回れば色々と吐いてくれる、そう思って唄を聞いた。しかし、いきなり♪ひとりで生きてくなんてできないわ…か。やはり寂しいんだな。豪傑な人物も今度ばかりは心の中が疲弊しきっているのだろうと、察せるほど、巨人の汚いやり口と弱腰を暴露した阪神の情けなさを小津の唄から伺い知れた。

 それにしても面倒が目に見えた江川卓指名を考えたのはだれだったのか。スカウトのあの男が小津に耳打ちしたことはわかっている。

 「いつまで(阪神は)ジャイアンツの奴隷みたいに生きていきまんねん。ここらで一発、巨人に泡吹かせませんか」「江川を指名したらあかん、という密約が巨人とできてまんのんか」

 このひと言が小津の闘う細胞をくすぐった。

 「よっしゃ、わかった。スカウトの責任にはせん」「オーナーには俺の決心を伝える」

 阪神の江川指名のベルはこの瞬間に決まったのである。球団代表の岡崎義人にドラフト会議の現場の指揮を委ねた小津正次郎はその足で電鉄本社社長室のドアの前に立った。(敬称略)

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