星野監督にケタ違い軍資金 ようやく暗黒時代に終わりを告げた 元阪神社長語る(6)

 元阪神球団社長の三好一彦氏(90)が、かつて全力を注いだ球団経営を振り返り、今に伝え遺す阪神昔話「三好一彦の遺言」の第6話は「スパーキー・アンダーソンに直談判」。国際電話で直接監督要請を行ったが、答えは「ノー」だった。

 1996年は前年に続き最下位で終えた。阪神・淡路大震災の後遺症は依然残り、ドラフト指名は4人。戦力補強の乏しい中、指揮を執った藤田平もチーム再建を果たせず、わずか1年でその座を降りた。

 長い冬の時代の中で最も風雪の厳しさを感じるころだった。

 三好「(震災の)ダメージが大きくて思い通りにお金も使えず、監督には本当に苦労をかけたと思う。ただ母屋(本社)がガタガタになってお粥を食べてるのに、離れ(球団)でスキヤキというわけにはいかなかった」

 この年のオフ、阪神は大リーグ史上初めてア・ナ両リーグの監督(タイガースとレッズ)としてワールドシリーズを制した名将、スパーキー・アンダーソンに監督就任の要請を行っている。

 デトロイト・タイガースは阪神の友好球団でもあり、三好は調査渡米の際、何度かアンダーソンと会食。その時に興味深い話を聞いていた。

 三好「彼に監督として一番大事なことは何か?と聞くと、球場に着いたら一番にGM(ゼネラルマネジャー)と打ち合わせをすることだと言っていた。報告、指示、意見交換など。それを聞いて私も中村(勝広監督)と毎日、一緒にいるようにしたんです」

 そんな経緯もあり、アンダーソンを次期監督の第一候補とした。

 三好「交渉担当者が何とか連絡先を探し出して、会社(球団事務所)から電話すると、スパーキーが私を電話口に出せと言ってきたらしい。英語はできなくても、ゆっくり話せば分かるからと」

 言われる通りに試みた。タイガースとしての誠意は通じたようだが、丁重に断られた。

 三好「申し出はありがたいけど私は疲れ果てている、これからは孫とのんびり暮らしたい、妻も2度と監督はしてほしくないと言っていると。そんな感じの話でした」

 名監督の誉れ高いスパーキー・アンダーソンだったが、直談判に失敗した以上、断念するしかなかった。

 「球団社長と監督はオーナーが決める」(久万)はずだったが、なぜかこの年に限り、久万は次期監督の選定を「合議制」とした。

 役員会議で候補者の名前を挙げてリストを作成した。経験、指導力などのチェック項目に評価点を入れていく仕組みだ。

 そのリストからアンダーソンを外したあと、後任選びは難航した。合議制ゆえになかなか決まらず、最後は三好に一任という形が取られた。

 三好「そうなったら経験豊かな吉田しかなかった。(要請の日は周囲に)分からんように早朝、夫婦で散歩する格好をして出かけましたわ」

 三好は慎重だ。行動は常にマスコミに悟られないよう用心していた。公正中立。偏向のない対応に気を配っていた。

 84年に吉田に監督要請した際も、家族旅行を装い、博子夫人を伴って家を出ている。

 吉田は96年、フランス野球の代表チームの監督をしていた。

 だが、三好は「もうコリゴリや」という吉田を粘り強く説得し、3度目の指揮を執らせた。

 時期は暗黒時代のど真ん中。資金に頼らないチーム作りを理想とする本社(久万オーナー)の方針は絶対だった。

 だが、トレードや外国人選手の獲得など、単発的な補強で効果を求めるには限界があった。

 さらに本社主導の監督人事が球団内部を混乱させる。本社と球団のいびつな関係が暗黒時代そのものを物語っていた。

 阪神は2002年、野村克也に続いて外部から星野仙一を監督に招き、翌年リーグ優勝を果たす。

 本社は星野招請に際し、球団経営の方針を大転換。初めて本腰を入れた投資を行い、戦う態勢を整えた。

 星野という名声が、低迷期とはケタ違いの軍資金を用意させ、見事にタイガースを蘇らせたとも言える。こうして暗黒時代に終わりを告げた。

 しかし、最下位にあえぐ96年はまだ暗闇の中にいた。フロントも現場も必死だったが、もがけばもがくほど足をとられて沈んでいく。苦難の日々が果てしなく続いていくように思えた。

(敬称略/宮田匡二)

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