【私と甲子園】岡田彰布阪神元監督 思い出に残るノーヒットノーラン試合での好捕

 高校野球を彩ってきた元球児の阪神関係者が高校時代を振り返る「私と甲子園」。第7回は、北陽(現関大北陽)OBでデイリースポーツ評論家の岡田彰布さん(60)です。「私学7強」の一角を担った強豪で1年夏からレギュラーとなり、激戦区の大阪大会を勝ち抜いて、73年夏の甲子園へ出場しました。しかし、高校時代に聖地に立ったのは、この1度だけ。ほろ苦さも残る当時を振り返ってくれました。

 高校野球デビューは華々しかった。当時の大阪は「私学7強」(※)時代。岡田は明星中から明星へ進学する選択肢もあったが、明星が学業を優先する方針となったため、ライバルの北陽へ進んだ。

 200人以上が入部した中、1年夏から左翼のレギュラーに定着。当時の北陽は、1年生をレギュラーにしない方針だったため、異例の抜てきだった。

 チーム内では、あどけなさが残る風貌から「みなしごハッチ」と呼ばれた15歳。「大阪で勝つのが大変やったよ」と振り返る激戦区で、しっかりと結果を残した。73年大阪大会決勝・PL学園戦は本塁打を放ち、優勝へ導いた。

 甲子園では守備で思い出に残るプレーがある。エース・有田二三男投手(元近鉄)がノーヒットノーランを達成した3回戦・高鍋戦。八回1死二塁で左翼線へ守備位置を変え、安打性のライナーを好捕した。当時の試合後は、初々しい笑顔で「憧れの甲子園でプレーできるのは幸せです」と振り返っている。

 「(JR)甲子園口から路線バスで甲子園へ行ってたなあ。1年の夏は楽しかった。俺らの学年はいい選手が多かったし、3年間で5回、甲子園に出られると思ったけどな」

 1年秋からは投手と遊撃手として活躍。73年の秋季近畿大会では4強へ進出し、翌年のセンバツ出場を確実にしていた。

 だが、74年1月に応援団の暴力事件が発生。2季連続の甲子園出場を逃し、高校野球生活は暗転してしまう。2年夏は右肩を痛めて大阪大会2回戦で敗退。3年夏は大阪大会で5連投したが、決勝で興国に敗れた。

 「暴力事件のインパクトが強くて、高校はあんまりええ思い出がないんよ。一番の思い出は200人以上の同級生が、暴力事件で7人になったことやな」

 結局、甲子園には1度しか出られなかったが、素質を感じさせる逸話を残している。2年時の74年夏から、高校野球で金属バットの使用が解禁となった。「当時の金属バットは(打つたびに)へこんでたから、俺のバットは芯が平らになっとったんよ。バントの時はみんなが俺のバットを使ってたなあ。その方がバントしやすいって」。後に阪神の中軸となる打者は、高校時代から抜群のミート力で周囲を驚かせていた。

 ※私学7強 60~80年代に甲子園で活躍した大阪の私学、PL学園、浪商(現大体大浪商)、北陽(現関大北陽)、近大付、大鉄(現阪南大高)、興国、明星の7校を指す。

 ◆岡田 彰布(おかだ・あきのぶ)1957年11月25日生まれ、大阪市出身。北陽では1年夏に甲子園出場。早大を経て、79年ドラフト1位で阪神へ入団。94年にオリックスへ移籍し、95年に現役引退。プロ通算1639試合で打率・277、247本塁打、836打点。04~08年まで阪神の監督を務め、05年にリーグ優勝。10~12年はオリックスの監督も務めた。現本紙評論家。

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