石原プロが58年の歴史に終止符…「自分の作りたいものを作る」から生まれた映画、ドラマ、歌

 2021年1月16日、石原プロモーションが解散する。戦後の映画界で輝きを放ったスター・石原裕次郎さんが1963年の同日に創設し、87年の石原さん死去後は渡哲也さんが中心となって、その志を受け継いだが、その渡さんも今年8月に亡くなり、58年の歴史に終止符を打つことが発表された。その足跡を振り返る「映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也」(朝日新聞出版) が12月に発売されたことを受け、監修・執筆を担当した娯楽映画研究家の佐藤利明氏に話を聞いた。

 石原プロ創設の63年に生まれた佐藤氏。これまでも石原まき子さんへのインタビューや対談で、東京・成城の石原邸に足を運んできた。今回の仕事は「僕なりの御恩返し」という。佐藤氏は「まき子さんから、裕次郎さんとの出会いの日のこと、初共演した日活映画『狂った果実』撮影の舞台裏、素顔の裕次郎さんのエピソードをうかがってきましたが、その眼差しには恋人だった頃の裕次郎さんへの想いを感じることができました」と振り返る。

 佐藤氏は「今年9月、北海道・富良野塾での倉本聰先生インタビューが今回のムック出版のきっかけです。そこで倉本先生から、晩年の裕次郎さんと取り組んだ映画企画『船、傾きたり』の経緯を細くうかがい、(本書の)後半で執筆しました」と明かす。その上で、佐藤氏は石原プロの足跡を振り返った。

 「昭和30年代、日本映画黄金時代を牽引してきた裕次郎さんは『撮影所が生んだ大スター』です。『自分の撮りたい映画』を造るために、石原プロを立ち上げ、五社協定という抵抗勢力に屈することなく、空前のヒット作『黒部の太陽』や『栄光への5000キロ』を生み出しました。斜陽の映画界で多額の負債を抱えてピンチを迎えますが、不死鳥のように復活してテレビ界で『大都会』『西部警察』というエポックメイキングな作品を送り出し、それまでのテレビではできなかった『映画のような』スケールの『アクション』ドラマで一時代を築きます」

 両雄の魅力とは?佐藤氏は「石原裕次郎というスターが『日本人に最も愛された男』であることは、映画のスチールや撮影現場でのスナップの表情から、時代の空気と共に伝わってきます。裕次郎さんは、スタッフにも、ファンにも、誰に対しても『気配りの人』でした。誰もが『この人について行こう』と思ってしまうような人間的な魅力にあふれていました。日活撮影所の食堂で、渡さんが初めて挨拶した時に、すっと立ち上がって手を差し伸べて握手をしてくれた裕次郎さんの姿に『この人について行こう』と思わせる優しさがあったのです」と語る。

 また、渡さんについて「日活の『無頼』シリーズやニューアクション、東映の『仁義の墓場』、テレビ『大都会』『西部警察』などでの『硬派の男』のイメージが強いですが、素顔は本当に優しい方でした」という。さらに「71年、石原プロが映画の失敗で5億8千万円の負債を抱え、しかも結核で長期入院を余儀なくされた裕次郎さんが退院してきたばかりの時、渡さんはその時に出演した松竹『さらば掟』のギャラと同額の180万円の現金をポケットに忍ばせて石原プロを訪ね、『これで皆さんでお茶でも飲んでください』とポケットから封筒を差し出し、裕次郎さんは感動。その時、渡さんは『石原さんと同じ釜の飯を食べて、映画作りをしたい』と入社を決意したのです」とエピソードを披露した。

 2人は歌手でもあった。佐藤氏は「裕次郎さんの歌声には、誰をも魅了する不思議な魅力があります。ささやくように歌い、語るように歌います。しかも昭和30年代、まだ『流行歌』の時代からビッグヒットを飛ばし、昭和40年代『歌謡曲』の時代をリードしていきます。ムード歌謡というジャンルも裕次郎さんの歌から生まれました。渡さんの『くちなしの花』もそうですが、裕次郎さんの『銀座の恋の物語』など、オリジナルは知らなくてもカラオケで聴いたり、歌ったりしている人も多いと思います。ヒット曲をたどることで、映画だけでなく『歌』でも時代を作ってきたことに改めて気付かされるでしょう」と指摘する。

 「エンタテインメントはシステムが作るのではなく『自分の作りたいものを作る』という強い『人の想い』が作ってきたのだということを改めて実感していただければ」。最後に、佐藤氏は石原プロの原点を強調した。

(まいどなニュース/デイリースポーツ・北村 泰介)

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