南海史上最高の投手で南海最後の監督、杉浦忠と超二流のガッツマンとの不思議な縁~池之上格の懐古談
南海ホークスに池之上格というガッツマンがいた。バットを極端に短く持ち、死球大歓迎の特攻野郎。現役引退後は実直な人柄と幅広い人脈を生かしたスカウトマンとして活躍した。そのイケさんが自ら仕えた6人の監督を偲び感謝の言葉を捧げるコラム。最終回は南海史上最高の投手で、南海最後の監督及びダイエー初代監督を務めた杉浦忠さん。
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僕は南海ホークスを1986年限りで自由契約になったんですが、その年に監督に就任したのが杉浦さんだった。だから杉浦さんのもとでプレーできたのは1年だけということになる。
当時、僕は選手会長だったので立場上、ナインを代表して監督と直接話をする機会があった。そのころは杉浦さんの現役時代とは違い、チーム自体が弱かったので選手から見た現状などの話をさせてもらった。
そのあと自分の話に移ったときに、はっきりと伝えたことがあった。僕は監督にとって魅力のある選手でいたいと思っていたから、正直に「僕に魅力があると思ったら使ってください」と言ったんです。
そしたら4月29日、当時の天皇誕生日にファーム落ちになった。開幕からわずか7試合の出場で8打数ノーヒット、一度も出塁できず2三振のオマケつき。
杉浦さんから「イケのあの粘っこいバッティングをファームでもう一回磨いてきてくれ」という宿題を渡されて以来、二度とお呼びはかからなかった。
2軍では一生懸命自分に磨きをかけようと頑張った。でも1軍へは上がれない。そのうち周囲から“お前は穴吹派だったから杉浦さんに干されているんだろう”と言われるようになっていった。
しかし、僕の中では“それは違う”と思っていた。自分に魅力を感じてもらえていないのなら、魅力ある選手にならなければいけないと。
そもそも“干される”とは実力があるのに折り合いが悪いから起用してもらえないということ。僕の場合は自分に力がない。それが昇格できない理由だと自覚していた。
このシーズンを最後に僕は南海のユニホームを脱いだ。球団からはコーチへの打診があったけれど、現役にこだわりたかったのでそれを断り、南海のOBでもある古葉(竹識)さんを頼って、大洋ホエールズのお世話になったんです。
大洋での在籍期間は3年。区切りをつけたときに話をもらったのが、南海の後身球団ダイエーだった。忘れもしない1990年の1月18日。
そのころ杉浦さんはダイエーの球団取締役をしていて、開口一番言われたのが「お前には借りがある」だった。
なんのことかと尋ねると、南海最後の年の僕への処遇だった。杉浦さんは「3年間、他球団へ行かせて申し訳なかった」と。現役にこだわったのは僕自身なんだけどね。
それと新しく始まるダイエーでの仕事。当初、杉浦さんはコーチのポストを用意しようと考えてくれていたようだが、球団代表だった坂井(保之)さんから“池之上はスカウトを束ねる担当デスクにしたい”との要望があったらしい。
いわば坂井代表-田淵幸一監督-杉浦球団取締役の三者をつなぐ役割。「だから俺は泣く泣く諦めたんだ」と言われたが、これはこれで重要な役目だと思った。この配置がその後のダイエーでのスカウト活動につながっていったのだから、杉浦さんとの縁にも深いものを感じる。
杉浦さんはその後、92、93年に編成部長を担務。この2年間は1イニング11失点の僕と、54回2/3連続無失点の大エースとのコンビでスカウト行脚に出ていたんです。
その中で最も印象に残る出来事は、92年のバルセロナ五輪を前にした海外視察の決断だった。
経費に厳格な球団に対し、全日本チームへの帯同を強く訴えた僕を杉浦さんは全面的に支援、強力にバックアップしてくれた。そのお陰で最後は球団本部長が五輪同行視察を認めてくれた。
チームには翌93年度のドラフトでダイエーに逆指名入団した小久保裕紀(現ソフトバンク監督)が青学大の3年生で選ばれていた。もちろん彼が本命だった。
小久保に始まり、高校生ドラフトで1位入団した城島健司や斉藤和巳、これに井口資仁、松中信彦らが続き、後のソフトバンクのエリート集団へとつながっていった。
思えばあのとき、僕が2軍でふてくされていたら、こういう道は歩けなかったかもしれない。自分で言うのもおかしいけど、僕は素直なんです。それだけが取り柄なんですが、いろんな人とのつながりで生きて来たのは確かでしょうね。
現在はガス、電気、水道、防犯カメラなどのライフライン全般のお困りごとに取り組む「株式会社アイコンホールディングス」という会社で顧問を務めています。プロ野球関係のネットワークを生かし、営業の御用聞きや人事採用を担う仕事です。そこで感じるのは“今”がこれまでの人生と決して無縁ではないということです。
ところで、僕が仕えた6人の監督との間には杉浦さんに限らず、それぞれ“2度目”があるんです。野村克也さんの場合は南海時代の監督と選手、阪神時代の監督とスカウト担当というように。
現役時代から野手への転向を勧めてくれた広瀬叔功さんも、監督とヘッド両方の立場で目をかけてくれたドン・ブレイザーも、そして古葉さん。
穴吹義雄さんは90年度のドラフトで、鹿児島実・内之倉隆志を2位指名したときのダイエー編成部長。
今はお世話になった監督のお墓参りにも行きたいと思っている。僕の青春の1ページを飾ってくれた人たちであり恩人。貴重な言葉とお叱りもいただいた。その教えは何年たっても錆びることなく、僕の体の中で生き続けているんです。
◆池之上格(いけのうえ・とおる)1954年5月19日、鹿児島県垂水市生まれ。72年度のドラフトで右投げ右打ちの投手として南海に3位入団し80年に野手転向。87年に大洋へ移籍した。実働16年。投手時代は2勝0敗(1完封)。打者としては570試合で15本塁打、97打点、打率・269。83年はパ・リーグ最多の16死球を獲得している。
