野手への転向とコンタクトレンズへの変更 大先輩広瀬叔功のアドバイスに感謝~池之上格の南海話
南海ホークスに池之上格というガッツマンがいた。バットを極端に短く持ち、死球大歓迎の特攻野郎。現役引退後は実直な人柄と幅広い人脈を生かしたスカウトマンとして活躍した。そのイケさんが自ら仕えた6人の監督を偲び感謝の言葉を捧げるコラム。第3回は広瀬叔功さん。投手から野手への転向を強く勧めた恩人だ。
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現役時代、投手として2勝しかできなかった僕だけど、早くから野手への転向を勧めてくれていたのが広瀬さんだった。広瀬さんが現役のころから「投手では難しいから野手をせい。野手なら1000万円プレーヤーになれるから」と言われていたんですよ。
当時は1000万円プレーヤーというのが野球選手のステータスでしたからね。
ただし、そこへたどり着くまでに時間がかかった。実に4年。投手への未練と言えば、そうかもしれない。
近鉄戦で1イニング3暴投、11失点というワースト記録を作った1976年7月25日、天神祭の日。その数日後、広瀬さんに「お前はメガネがあかんのじゃ。コンタクトにしろ」と言われ、愛車のムスタングに乗せられ岸和田かどこかの眼鏡店でソフトレンズを買ってもらったんですよ。突然のことで驚いたというか、何というか。
「俺は山内新一にもコンタクトを買ってやったことがあるから、お前にも買ってやる」と言ってね。山内さんは入団時、メガネをかけていたんですよ。
実はコンタクトレンズを買いに出掛ける前、堺のご自宅でカツ丼をご馳走になり、「お前、暇な時でいいからウチの息子の家庭教師をやってくれ」と言われたんです。これにはもっと驚きましたね。
僕は入団してからも、ずっと黒か銀縁のメガネをかけていたので、「常陸宮」とか「哲人」なんて呼ばれていた。なんとなく風貌がそんな感じだったんでしょう。
(確かに池之上氏は鹿児島県下有数の進学校でもある鶴丸高校を卒業している。中学時代は常に学年トップで通信簿はオール5。絵に描いたような優等生で、将来は建築関係の仕事か医療従事者になることを漠然とながら考えていたという)
でもね、実際の僕は鶴丸高校同期生515人の中で440番目ぐらいで入学し、野球部に入ったあとはずっと510番ぐらい。そこから微動だにしなかったね。いわゆる上を見ればキリがない、下を見ればあとがないというやつ。
そもそも進学にあたっては、一生懸命勉強してもみんなに追いつけるかどうかだと言われ、「野球部には入らない」と誓って入学していたので、高校生活は約束不履行から始まっているんです。
話を戻すと、投手で入団した僕が野手へ転向したのは結局のところ、広瀬さんが監督になって3年目の80年。監督最後の年なんです。77年にプロ初完封を記録して、もう1年やりたい気持ちになり、78年にファームで14勝を挙げると、さらにもう1年と色気が出てしまった。
78年は開幕を1軍でスタートしたものの、4月末に2軍降格を告げられた。その際に広瀬さんから「俺がバットを買ってやるから野手をやれ」と言われ、実際に1ダースのバットを用意してもらったんです。なのに翌年も投手。現役時代から言い続けていた広瀬さんもサジを投げていたかもしれない。
投手をやっているころから自分でも打撃はよかったと思う。2軍ではあるけど、1試合で2安打や3安打したことがあったり、代打で出たこともあった。いつごろだったか4割ほどの打率を残した時期もあった。当時まで遡る2軍成績は現在、NPBで正確に記録されていないらしいけど、結構打ってたんですよ。
投手に区切りをつけようと決心したのは79年9月6日、藤井寺での近鉄との2軍戦。この試合、僕は九回の1イニングで3本塁打された。“ビッグイニング”は得意ですから(笑い)。
その3本目を同学年のジャンボ仲根(正広)にポカーンとライトへ。これで踏ん切りがついた。仲根はその年に野手に転向してるんですよ。
次の日から2軍監督だった穴吹(義雄)さんに野手転向を願い出て許可をもらいノックを受け始めた。広瀬さんの現役時代から野手転向を勧められていたので、やっとこさの決断だった。
翌80年11月7日、シーズン最終試合。大阪球場での近鉄戦で野手初出場を一塁手として先発で起用してもらい、プロ初安打を記録することができた。福井保夫投手の足もとを強襲する恩返しの1本でした。
でも、悲しいかなその試合で広瀬さんは指揮を執っていない。すでに退任していたので横溝(桂)さんが代行を務めていた。広瀬さんは3年の任期を終えていたんでね。
大阪球場を日本シリーズ用に明け渡していた関係で未消化試合が残っていた。だから広瀬さん不在の最終戦。それだけが残念だった。
思えば投手として挙げたプロ初勝利(76年4月11日、日本ハム戦、救援登板)は広瀬さんのサヨナラヒットで飾らせてもらったもの。僕はうれしさのあまり、一塁ベンチで飛び上がって喜んだら天井に頭をぶつけてしまった。激痛ですよ。大阪球場は何かにつけてスモールだったなあ。
バットを作ってもらい、コンタクトレンズまで作ってもらい、野手への道を真剣にコーディネートしてくれた広瀬さんには、本当に縁の深さを感じている。
◆池之上格(いけのうえ・とおる)1954年5月19日、鹿児島県垂水市生まれ。72年度のドラフトで右投げ右打ちの投手として南海に3位入団し80年に野手転向。87年に大洋へ移籍した。実働16年。投手時代は2勝0敗(1完封)。打者としては570試合で15本塁打、97打点、打率・269。83年はパ・リーグ最多の16死球を獲得している。
