長所を伸ばすか短所欠点を矯正するか、お前らどっちや!門田ら選手に迫った野村克也~池之上格の南海話
南海ホークスに池之上格というガッツマンがいた。バットを極端に短く持ち、死球大歓迎の特攻野郎。現役引退後は実直な人柄と幅広い人脈を生かしたスカウトマンとして活躍した。そのイケさんがコラム「いけのうえ」の中で自ら仕えた6人の監督を偲び感謝の言葉を捧げる。まずはプロ入り時の監督だった野村克也さん。野村教室での学びが野球人生の土台になったという。
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僕は2018年に甲状腺乳頭がんの手術を受けているんです。定期健診で肺の要調査を指示され再検査したところ、肺は全く問題なかったが、器官に突起物が写り、甲状腺の異常が判明。これを全摘出したんです。
その際、一番心配したのが声を司る2本の反回神経を傷つけること。しかし、声を失う危険を伴いながらも、7時間に及ぶ手術で見事に残存させていただいた。
普通に声が出る。これは“残りの人生、おしゃべりしろ”という天の声に違いない。今は講演を依頼されたりすると“天命”に従って、しっかりしゃべってます。
そういう事情もあってこのコラムを書くことにしました。第1回はやっぱり野村克也さん。僕が入団したときの1軍監督を僕なりの視点で書いてみようと思う。
僕は鹿児島の鶴丸高校3年生だった1972年度のドラフトで南海ホークスに投手として3位指名され、入団1年目の73年にチームがリーグ優勝している。昭和で言うと48年。当時、野村さんは38歳の青年監督だった。
その野村さんとの初対面で真っ先に思い出すのは、ウチのオヤジが働いた無礼?ですね。
あの日は入団の正式契約を大阪・難波のホテルで済ませ、その足でオヤジと姉と一緒に堺の中百舌鳥(なかもず)にある合宿所「秀鷹寮」まで移動。天文館で買った2つのバッグに荷物を詰めてね。頭は五厘刈り。引率してくれたのは石川正二さんで、僕を担当していた大ベテランのスカウトだった。
寮に到着したら野村さんがいて、わざわざ出てきてくれた。そしたらウチのオヤジが開口一番、「あっ、村山監督ですか?」って言っちゃって。村山さんはその年まで阪神の監督をしていたから混同したみたい。
とっさに隣にいた石川さんが「お父さんは野球に疎いんで申し訳ないね、監督」とフォローしてくれた。当人は最初キョトンとしていたが、ニコっと笑って田舎者の僕たちを歓迎してくれた。それがスタートですね。
ただ、本当の意味でのスタートは1973年2月、キャンプ中のミーティング。僕の72年の人生の原点はここにあるんです。人に歴史ありと言うけれど、こんな僕にもあるんですよ。
今でも忘れない。大広間に1、2軍の選手全員が車座になって野村監督の話を聞くんです。僕は大事な言葉を聞き漏らすまいと必死になってノートをとった。学校の授業以外でノートをとるなんて、中学の修学旅行でガイドさんに案内されたとき以来でしたよ。
そのころは和歌山の紀伊田辺でキャンプを張っていて、1軍の宿舎「伯扇閣」に2キロほど離れた「中島荘」から2軍の選手が合流する形でミーティングが開かれた。夜の8時ごろから。1クールに1回ぐらいだったかな。
そこで野村さんが「野球選手は長所を伸ばすのがいいのか、短所欠点を矯正するのがいいのか、どっちや?」と選手に問いかけたことがあった。そしていきなり僕を指名し、「池之上、お前はどう思う」と。
僕は緊張して言葉に詰まりながら「僕は体が弱いので、自分のウイークポイントを徹底して矯正し、全体のレベルを上げたいです」と答えた。
次に野村さんは「門田(博光)、どう思うんや」とカドさんに振った。するとカドさんは「僕は長所をどんどん伸ばしていきます。打つことが長所なんで。それで食っていきます」と。堂々たる回答ですよ。それが長所をもっている人の答えなんだと思った。
ところが、そのあと野村さんが「俺は池之上と一緒や」と言ったんですよ。
その理由は-プロである以上、相手に弱みを見せてはいけない。欠点はいち早く直すべき。変化球などウイークポイントがあればそこにつけ込まれる。長所は放っておいても勝手に伸びていくものだ-こんな感じの説明だった。
つまり短所欠点を知るということは自分を見極めるということ。この解釈は、その後の人生を歩んでみて分かったことでもある。自分を知るということがいかに大切か。あのときの答えには、そういう意味が含まれていたんでしょうね。
野村監督から得た言葉にはほかに「慢心せず、失望せず」もある。これはレギュラーになったあとの僕の座右の銘にもなった。良くても有頂天にならず、悪くても落ち込まず、先のことを考えて常に備えろ、という野球に取り組む姿勢の話。この言葉もずっと大切にしてきた。
ところで、野村さんはカドさんの短所欠点を“振りすぎ”にあると思っていたようだ。そんなに強振しなくてもいいと。もう少しコンパクトに振ってもいいのではないかと、王(貞治)さんを通して伝えたことがあったという。
でも、カドさんは意地を貫いたね。自分を磨いて自分のスタイルでホームランバッターになって見せる。この反骨精神があったからこそ本塁打を量産していったんでしょう。あの小さな体で凄いこと。
野村さんは657本、門田さんは567本、僕はたったの15本。でもキャンプで接した“車座の説法”は貴重で得がたい僕の原点となった。本当に幸せな男だとつくづく思う。
◆池之上格(いけのうえ・とおる)1954年5月19日、鹿児島県垂水市生まれ。72年度のドラフトで右投げ右打ちの投手として南海に3位入団し80年に野手転向。87年に大洋へ移籍した。実働16年。投手時代は2勝0敗(1完封)。打者としては570試合で15本塁打、97打点、打率・269。83年はパ・リーグ最多の16死球を獲得している。
