【野球】野手転向→球団身売り→自由契約 テスト入団からの逆襲 横浜でレギュラー獲得 池田の甲子園V投手畠山準さん
徳島・池田高時代に夏の甲子園優勝投手となった畠山準さん(61=DeNA球団職員)は、プロ入り後、自由契約から復活を遂げた選手として知られる。ドラフト1位で入団した南海時代に野手に転向するも、その後、球団はダイエーに身売りされ、新たな所属先ではわずか2年で戦力外を通告された。だがテスト入団を果たした大洋(横浜、現DeNA)で野球人生は好転していった。
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高校を卒業後、ドラフト1位で入団した南海は1988年9月14日にダイエーへの球団譲渡を発表した。くすぶり続けていた身売り話は現実となり、プロ野球選手として6年間を過ごした球団は消滅。大阪から福岡に本拠地は移転し、ダイエーの一員としての日々が始まった。
野手転向を勧めた杉浦忠監督はそのまま指揮を執り、畠山さんは1軍に定着して61試合に出場。しかし翌90年、ダイエーは田淵幸一氏を新監督に迎えた。体制の変化とともに出場機会が減っていった畠山さんは、その年のオフに自由契約となった。
「たまたまおふくろが福岡に来てる時に、クビっていう話になって。おやじに電話したら帰って来いって言われたんですよ。そんなこと言うおやじじゃないんですけど、ご苦労さん、もういいよ、帰って来いって」
南海時代に両親に知らせることなく結婚して子どもを授かったことで、実家とは疎遠になっていた。
「おやじとは一切ダメになってて、勘当状態だったんで実家にも帰ってなかったんです」
その父からかけられた、思いがけないねぎらいの言葉。畠山さんは心を揺さぶられながらも、もう一度、野球選手として生きようと決意した。まだ26歳だった。
「ありがたくって、申し訳なかったんですけど、もう一回チャンスがあればと思って、テストを受けることにしたんです。何年できるか分からないけど、自分の子どもが、おやじが何してるのか、分かるぐらいまでは、まだ頑張れるかなと思って。1年でも長くユニホームを着たいって、執着するんですよ」
ダイエーから大洋のコーチになっていた竹之内雅史氏のツテでテストを受けた。「拾ってもらったんです」。合格を勝ち取った畠山さんは打者としてその才能を徐々に開花させていった。
移籍2年目には71試合に出場して10本塁打を放ち、93年には外野のレギュラーの座を獲得し128試合に出場。勝負強い打撃で14本塁打、72打点を記録し、初めて規定打席に到達した。翌年も127試合に出場し2年連続で規定打席をクリアした。
93年からはオールスター戦にも3年連続出場。自由契約から見事に復活を遂げた畠山さんは注目を集めた。
レギュラーを取ったことについては「大したことないですけどね」と言葉少なだったが、オールスター戦出場は忘れがたい思い出となっているようだ。
「監督推薦で選んでもらった時はものすごくうれしかったです。いろんな所で取り上げていただきました。試合が終わった後にプロ野球ニュースに呼ばれたりしてね。本当はピッチャーが花形なんだけど、運良く野手としてオールスターに出られたっていうのはよかったなと思いますね」
プロ入り1年目にジュニアオールスターに出場してMVPを獲得したことはあった。だが、1軍の選ばれし者しか出場できない夢の球宴に選出されたことは、打者として認められた証でもあった。(デイリースポーツ・若林みどり)
◇畠山準(はたやま・ひとし)1964年6月11日生まれ。徳島県出身。池田高の4番投手で82年の夏の甲子園優勝。同年のドラフト1位で南海入りし、2年目に5勝(12敗)。88年に野手に転向。90年に自由契約となり、91年に大洋にテスト入団。93、94年は外野のレギュラーに。投手として55試合で6勝18敗、防御率4・74。打者として862試合で483安打、57本塁打、240打点、打率・255。球宴に3度出場。投手、野手で規定投球回、規定打席に到達。




