【野球】「名前を変えろ」蔦監督からのムチャ要求も 5度目の正直で甲子園へ 期待され続けた池田のエース畠山準さん
徳島・池田高のエースとして、1982年の夏の甲子園で優勝投手となった畠山準さん(61)は現在、DeNAの球団職員を務める。池田の名物監督だった蔦文也氏の大きな期待を背負い、1年からベンチ入りを果たしたが、甲子園までの道のりは遠かった。出場できたのは3年の夏。「名前を変えろ」と蔦監督にボヤかれ、プレッシャーを抱えながらも、最後の最後で甲子園への切符をつかんだ。
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中学時代から剛腕でならし、徳島県内のみならず、関西の有力校からも誘いを受けていた畠山さんは、進学先に池田を選んだ。
「私の入れ替わりの先輩が春夏甲子園に出ていて、夏は準優勝していた。それをテレビで見ていたし、決勝戦を終えた蔦先生が一番最後にあいさつに来てくれて。ユニホームを置いて『練習しとけよ』って。はいって言うしかなくて」
蔦監督のぶっきらぼうな勧誘を懐かしんだ。
池田は1974年に、わずか11人の選手でセンバツ準優勝を果たし「さわやかイレブン」として話題を呼んだ。小学生だった畠山さんは甲子園のアルプスで試合を観戦しており「何かしら縁を感じていたのかもしれない」とも話す。
大物新人、畠山さんの加入を蔦監督は大いに喜び「甲子園に5回行ける」と1年の夏、2年の春夏、3年の春夏の5季連続出場を吹聴していたほどだった。
畠山さんは入学後すぐ、春の四国大会で公式戦デビューを果たす。明徳との3位決定戦に先発し、3年の河野博文さん(日本ハム、巨人)と投げ合った。試合は引き分けに終わったが、中学を卒業したばかりの1年生投手はレベルの高さを示した。
ただ、そこから甲子園への道は険しかった。
「結局5回目の最後しか行けなかったんです。負けた4回っていうのはすごいプレッシャーでしたね。出る出る、優勝候補って言われて、決勝前に負けたりとかあった。甲子園に関係ない春の大会とかでは優勝したりしてるんですが。甲子園につながる大会で負けてたんで、結構いろいろ言われましたね。蔦先生にも名指しで言われてましたし」
蔦監督のボヤきは、実に人間臭い。
「僕の名前が準備の準(読みはひとし)、準優勝の準なんで2番。自分の名前は文也(ふみや)で、ひー、ふー、みーでいうと2つ、2番だからってことで、名前を変えろって。入学する前にあいさつに来た時点で言われてましたね」
5度目にして最後の挑戦となった3年夏の地方大会、徳島商との決勝戦。選手はもちろんのこと、蔦監督も必死だった。準優勝に甘んじるわけにはいかなかったのだ。
「先制したんですけど、途中で追いつかれたんです。その時、先生に裏で殴られてましたからね。今じゃNGですけど、そんな時代でしたから。でもそんなのは全然気にならなかった。それより、まず勝たないといけないってプレッシャーですよね」
6-3で試合に勝利し、畠山さんはエースとしてやっと甲子園出場を決めた。プレッシャーに苦しめられていた選手たちは開放感に包まれた。
「最後に初めて甲子園に行ったんで、みんな、行った時点で、もういいやって感じ。なんかこう憑きものが落ちたというか。だからみんな全然ノープレッシャーでしたね」
それが奏功したのか、3年ぶりの甲子園で池田は接戦をものにしていった。畠山さんは「ずっと調子が悪かった」と言うものの初戦の静岡戦に始まり、日大二戦(西東京)、都城戦(宮崎)と完投した。そして迎えた準々決勝。相手は社会現象を巻き起こしていた荒木大輔投手を擁する早実戦だった。(デイリースポーツ・若林みどり)
◇畠山準(はたやま・ひとし)1964年6月11日生まれ。徳島県出身。池田高の4番投手で82年の夏の甲子園優勝。同年のドラフト1位で南海入りし、2年目に5勝(12敗)。88年に野手に転向。90年に自由契約となり、91年に大洋にテスト入団。93、94年は外野のレギュラーに。投手として55試合で6勝18敗、防御率4・74。打者として862試合で483安打、57本塁打、240打点、打率・255。球宴に3度出場。投手、野手で規定投球回、規定打席に到達。





