【野球】徳島・池田の甲子園V投手、畠山準さん 他球団での現役続行を断りDeNAの球団職員であり続ける理由
徳島・池田高のエースとして1982年の夏の甲子園で優勝を果たした畠山準さん(61)は、ドラフト制以降のプロ野球で初めて、投手と野手で規定投球回と規定打席に到達した“二刀流”だ。ドラフト1位で入団した南海(ダイエー、現ソフトバンク)と移籍先の大洋(横浜、現DeNA)に17年間在籍。引退後はDeNAの球団職員として野球振興に携わる。野手転向後に才能を開花させ、横浜の地に根を下ろした畠山さんの人生を追う。
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引退翌年の2000年に横浜の球団職員となった畠山さんは、昨年定年を迎えた。現在は嘱託として“現役”を続行し、若手スタッフらとともに、精力的に動いている。
名刺に書かれている所属部署は「野球未来創造室 野球普及・振興部 地域コミュニティグループ」。球団マスコットのDB.スターマン、オフィシャルパフォーマンスチームdianaのメンバーらと幼稚園などを訪問し、ボール遊びなどを通じて未来の横浜ファン、野球ファンを育むことを目指す。
「習い事などをする前に、野球というものに子どもたちに親しみを持ってもらって、野球もやりたい、球場にも行きたいって方向付けができれば、ずっとベイスターズを応援してくれるサイクルができますから。おかげさまで今年の訪問活動の申し込みは過去最多になってます」
2011年オフにDeNAが親会社となり、横浜は飛躍的に人気球団となった。年間席はキャンセル待ちになるなど、うれしい悲鳴を上げているが、裏方として長く球団を支えてきた畠山さんは「お客さんが入っていない時も知ってますから」と冷静な視点も忘れていない。
球団職員となって以降、事業、運営、営業畑などを歩み、子どもたちだけでなく、地元の商店街の関係者らともひざをつき合わせてきた。
「チームの勝利により近いポジションで貢献したいとか、スカウトだったりチーム側に行きたいっていう時期もあったんですけど、もうないですね。事業側でいいし、今やってる仕事というのが僕らは大事だと思ってるんで。一番大事なのは、野球を今後やってくれる子どもを作らなきゃいけないってことです」
好循環を持続することへ使命感をにじませる。
99年シーズンを最後に戦力外を告げられた時、現役続行の道を一時は探った。
「やれると思ったんで河村英文さんに連絡したら、仰木さんに言うからすぐに来い、一応テストをするけど獲るからって言ってもらったんです」
南海時代の恩師でオリックスの投手コーチだった河村英文氏に相談したところありがたい返事をもらったが、最終的に仰木彬監督に断りの電話を入れた。
「申し訳ないんですけど、球団に残れる話をもらったんで現役を辞めますって報告したら、頑張れよって言ってもらいました」
右の強打者として新天地で18年目のシーズンを迎えるよりも、横浜残留を選んだ。その理由を尋ねると畠山さんは率直に言った。
「別の球団に行ってもう一回、人との付き合いを構築していくっていうのもどちらかと言うと嫌だった。球団職員として残れるって話をもらったんで、スパッと辞められたのはある」
そして義理堅い顔をのぞかせた。
「南海から身売りでダイエーに行って、自由契約になった。それでテストを受けて大洋に拾ってもらった。この球団は、僕にとって本当に恩があるんです。職員として恩を返せればなっていうのはありましたね」
甲子園優勝投手としてドラフト1位で入団した球団は消滅し、自身は野手転向後に戦力外を通告された。そこから大洋にテスト入団し、3年目には外野のレギュラーを獲得して復活を遂げた-。
「パ・リーグで8年、セ・リーグは9年。こっちの方が長いんですよ」
そう感慨を込めた。
徳島から大阪、福岡を経てたどり着いた横浜の地に根を張った畠山さん。その足跡を追っていく。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇畠山準(はたやま・ひとし)1964年6月11日生まれ。徳島県出身。池田高の4番投手で82年の夏の甲子園優勝。同年のドラフト1位で南海入りし、2年目に5勝(12敗)。88年に野手に転向。90年に自由契約となり、91年に大洋にテスト入団。93、94年は外野のレギュラーに。投手として55試合で6勝18敗、防御率4・74。打者として862試合で483安打、57本塁打、240打点、打率・255。球宴に3度出場。投手、野手で規定投球回、規定打席に到達。




