【野球】巨人V9戦士に訪れた試練 突然の右肩異変に翌年は原因不明の高熱で入院 復帰後初安打は支えてくれた愛妻へ誕生祝いの一発
巨人のV9戦士だった吉田孝司さん(79)は、1976年の長嶋巨人の初優勝を正捕手として支えた。だが翌シーズンの8月下旬、右肩を故障して戦線離脱。2連覇を遂げた終盤にマスクを被ることはできなかった。日本シリーズには強行出場したが、故障の影響は78年のキャンプまで続き、その後は原因不明の高熱により1カ月の入院生活を余儀なくされた。チームにはドラフト1位の大型捕手、山倉和博選手が加入していた。
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1977年8月27日のヤクルト戦(神宮)。吉田さんの右肩に異変が起こった。
クライド・ライト投手が先発した、その試合で吉田さんは盗塁も刺し、チームは快勝。待望のマジック23が点灯していた。
スローイングの際に違和感はあったが、最後まで試合に出場。だが、自宅に帰って風呂に入ろうとしたところ、肩が動かない状態になっていた。
「ちょっとおかしいなというのはあったんだけどね。肩が上がらないからハサミで(着ていた)シャツを切ってシャワーを浴びた。ご飯を食べようとしても右手が使えなかった」
翌日、球場で長嶋監督に「肩がダメです」と報告すると、監督からは「何がダメなんだ?昨日いいボールを放ってたじゃないか」と驚きの声が返ってきた。
突然の故障は長引いた。それ以降、終盤の31試合に出場できず、矢沢正、笠間雄二捕手らが代役を務めて、チームは連覇を勝ち取った。
10月22日に幕を開けた阪急との日本シリーズ。吉田さんは強行出場した。
「長嶋監督から『ヨシ、日本シリーズはなんとかやれ』と言われてね、痛み止めを打って出たんですよ」
試合前のシートノックでは、監督からのゲキが飛んだ。
「ヨシ、痛いだろうけど、やってくれ。シートノックで吉田は健在だって見せてやれ。思い切ってなげろ、みんな見てるからって」
手負いの状態であることを悟られないよう、懸命にスローイングした。
第1戦を小林繁投手で落とした巨人は、続く第2戦も完封負けを喫した。第3戦は延長12回にサヨナラ勝ちして一矢を報いたが、第4、5戦に連敗。2年連続で阪急に日本一を阻まれた。吉田さんは全試合にスタメン出場したが、肩痛を見越した阪急からは足を絡めた攻撃を仕掛けられた。
翌年のキャンプ。無理がたたって肩の状態は悪化していた。
「もう全然、放れなかった。そのキャンプに山倉(和博)がいてね」
ドラフト1位で入団してきた大物ルーキー捕手を意識しないわけにはいかなかった。
スローイングができない吉田さんには長嶋監督から2軍キャンプ行きが命じられた。
「冗談じゃないって思ってね、杉下(茂コーチ)さんに言ったの。無理を押して(日本シリーズを)やって、何でファームに行かなきゃいけないんですかって。まあ説得されて行ったんだけど」
宮崎の2軍施設に移動した吉田さんは気持ちを切り替えて練習に励んだ。投げられない分、下半身強化に専念。練習後に個人ノックや外野ノックを加え、球場から2軍宿舎まで走って帰るなど体をいじめた。
「ほんと頑張ったのよ、そしたら今度、キャンプが終わって帰ったら、疲れが出たのか、40度を超える高熱が出て、入院することになった。ウイルスが血管に入ったとかでね」
高熱は1週間以上続き、入院は1カ月にも及んだ。
78年シーズンの開幕となった4月1日の阪神戦。先発マスクを被ったのは山倉選手だった。注目の新人捕手はデビュー戦で一発を放ち、勝利に貢献した。
辛抱を強いられていた吉田さんは、7月3日にようやく1軍復帰を果たした。復帰2戦目の広島戦は心に深く残っているという。
「7月4日はちょうど女房の誕生日で、その日に札幌の円山球場でホームランを打った。池谷(公二郎)からだった。そういう思い出があるね」
復帰後初安打はホームラン。長引いた故障期間を支えてくれた妻へ感謝を込めた誕生祝いを打てたことを思い起こした吉田さんは、少し照れたような表情を見せた。
(デイリースポーツ・若林みどり)
吉田孝司(よしだ・たかし)1946年6月23日生まれ。兵庫県出身。市立神港(現神港橘)から1965年に巨人に入団。V9時代に2番手捕手として活躍し、入団10年目に正捕手に。84年に在籍20年で現役引退。通算954試合に出場、476安打、42本塁打、打率・235。76年の球宴で巨人の捕手史上初のMVP獲得。巨人でバッテリーコーチ、編成部長などを務め、2012年からDeNAのスカウト部長に就任、26年ぶり日本一の礎を作った。





