【野球】「生え抜きの高卒投手が活躍していかないと」阪神のドラ1が吉田監督にもらったチャンス→4年目でつかんだプロ初勝利、その後の試練…
1994年のドラフトで山村宏樹さん(49)は阪神から1位指名を受け、プロ野球の世界に足を踏み入れた。阪神以外なら社会人野球入りを決めていたが、相思相愛での入団が実現した。プロ4年目の98年には待望のプロ初勝利をマーク。さらなる飛躍が期待されていたが翌99年に、深刻な体調不良に襲われプロ野球選手としての危機を迎えた。
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94年11月18日。甲府工の3年だった山村さんは、教室に飛び込んできた野球部長から阪神の単独指名という吉報を知らされた。
前日に日本ハムが競合覚悟で1位指名する連絡を高校側に伝えており、成り行きに注目が集まっていた。
「プロに行かなかったら、日産自動車に行くことになっていました。高校の監督(原初也)さんが日産自動車出身で、チームで練習にもよく行ってたんです」
しかしドラフト当日に日本ハムは指名を回避。高校2年の夏に4番エースで出場して以来、あこがれていた甲子園。そこを本拠地とする阪神への思いは通じた。
ドラフト会場では中村勝広監督が背番号17を贈ることを発表して、山村さんへの期待の大きさをうかがわせていた。同期にはのちに近鉄で同僚になる北川博敏捕手をはじめ、田中秀太内野手、川尻哲郎投手らがいた。
晴れてタテジマのユニホームに袖を通した山村さんは、プロ3年目の97年6月22日に巨人との伝統の一戦(東京ドーム)で1軍デビュー。5番手で1回を無失点でしのいだ。
「吉田義男さんが監督になって、井上貴朗さんらと一緒に、甲子園に呼ばれたことがあったんです。生え抜きの高卒が活躍していかないといけない、使うからと言ってもらいました。吉田さんじゃなければ、使ってもらってなかったんじゃないですか」
同世代の高卒投手を集めて、直々にハッパをかけてくれた指揮官の心意気がうれしかった。
入団当初は右ひじの故障もあった。98年は、オープン戦で結果を出し、ようやく先発ローテの一角をつかんだものの、開幕前に右肩裏側の筋肉を痛めて2軍スタート。5月にプロ初先発を果たしたものの初回KOを味わっていた。
秋には待望のプロ初勝利を挙げる。9月17日。本拠地甲子園での広島戦で7回を江藤智内野手のソロ本塁打による1点に抑える粘りの投球だった。吉田監督から、一緒に“指名”を受けた1学年上の井上投手が7月30日に甲子園で先発初勝利を挙げており、後に続いた格好となった。
「前の年はダメだったし、その年も最初は投げたけど勝てなかった。1つ勝つのは大変なんだと思いながらやってたので、これでやっと、という感じでしたね」
プロ初勝利の記念球は抑えのリベラがスタンドに投げ入れてしまった。「知らなかった!って感じでした。でも新聞で書いてもらったので、翌日ぐらいに戻ってきたんですよ」とハプニングを懐かしんだ。
低迷が続いていたチームに飛び出した希望の若虎-。94年のドラフト1位右腕のプロ初勝利を当時のスポーツ紙は大々的に1面で報じた。プロ初黒星を喫した際も1面で取り上げられた。
「今の時代じゃなくてよかった。SNSがなかったので。やっぱりすごいなと思いましたよ。ちょっと言ったことが、こんなに大きくなったりする。そんなの全然分かりませんでしたから」
虎のドラ1への、想像をはるかに越える注目度をあらためて思い起こした。
プロ4年目で初勝利をつかみ、さあ、これからという5年目のシーズンを前に、山村さんはプロ野球生命の危機にさらされ渦中の人となった。(デイリースポーツ・若林みどり)
◇山村 宏樹(やまむら・ひろき)1976年5月2日生まれ。山梨県出身。甲府工から94年のドラフト1位で阪神に入団、98年9月17日の広島戦でプロ初勝利。2000年に近鉄にテスト入団し、同年にオールスター出場。01年には優勝に貢献し、日本シリーズ出場。04年の分配ドラフトで楽天入りし、2012年に引退。プロ在籍は18年で225試合に登板、通算31勝44敗2セーブ、20ホールド。防御率5・01。今年からBCリーグ・山梨のGMを務める。




