【野球】まさかの赤痢感染で隔離されたエース 史上初の春夏連覇目指す作新学院を襲ったアクシデント 原因は「たぶん、それじゃないかと思う」八木沢氏の回想
ロッテの投手として活躍し、チームの千葉移籍元年から監督を務めた八木沢荘六さん(80)は、高校野球で史上初の春夏連覇を達成した作新学院のエースだった。1962年のセンバツでは鉄腕ぶりを発揮して優勝投手となったが、チームが連覇を成し遂げた夏の大会では、不測の事態によって登板がかなわなかった。開会式当日に赤痢感染が判明し、隔離入院を余儀なくされた、ほろ苦い記憶を聞いた。
◇ ◇
「あれはね、やっぱり私の不注意だったんです、不注意」
1962年の夏の甲子園について尋ねると、八木沢さんは静かに口を開き、「不注意」という言葉を重ねた。エースナンバーを背負いながら、登板できなかった無念が伝わってきた。
センバツ優勝校は夏の大会で優勝できない-。当時はそんなジンクスがはびこっていた。第44回大会を迎えるまで春夏連覇を成し遂げた学校はなかった。
ジンクスを打破すべく、作新学院は8月4日に意気揚々と関西に乗り込み、注目を集める中、甲子園練習も行っていた。8月10日、開会式を終え、芦屋市内のグラウンドで投球練習をしていた八木沢さんに悪夢のような知らせがもたらされた。
「練習をしてたら呼ばれまして。白い服を着た人3、4人がやって来て病院に連れて行かれちゃって。赤痢になってたんです」
赤痢菌が発見されての強制隔離だった。
八木沢さんは、大阪入りする前日、栃木県今市市(現日光市)の実家に一時帰省した時のことを回想した。
「たぶん、(原因は)それじゃないかと思うんですけど、かき氷を食べて腹を下してたんです」
腹痛を抱えながら夜行列車に揺られ、到着した大阪ではコレラが流行中だった。地方から来たチームは保健所で予防接種を受けることになっており、7日に保健所を訪れた際に八木沢さんは下痢症状を伝えた。すると検便を課せられ、その結果が開会式当日にもたらされたのだった。
「俺が(赤痢に)なったから、みんなも感染してるんじゃないかと全員検査をやったんですが、俺1人だった。2人か3人出てたら出場停止だったんです」
最悪の事態を免れたことに胸をなで下ろした。作新ナインだけでなく、同じ宿舎に泊まっていた甲府工や、宿舎の従業員も検査の結果、陰性だった。
センバツでチームを優勝に導いた鉄腕エースの突然の不在。窮地で代役を務めたのは、センバツの準決勝・松山商戦で八木沢さんを九回途中からリリーフし、延長16回まで投げていた加藤斌(たけし)投手(元中日)だった。
アクシデントを受け、大会2日目から4日目の13日に変更された1回戦の対気仙沼(宮城)。八木沢ショックからか打線は元気がなく、1-1のまま延長戦に突入。延長十一回、敵失に乗じてようやく決勝点を奪った。アンダースローの加藤投手は11回を投げ被安打4、12三振と好投した。
2回戦の対慶応(神奈川)。打線は一転、14安打の猛攻で7点を奪う。加藤投手は5安打で相手を完封した。
八木沢さんは隔離された芦屋市内の病院の一室で、借り物のポータブルテレビにかじりつき、戦いを追っていた。
「加藤はね、高校生じゃ打てないですよ。1メートル82ぐらい身長があって、シュートがよくてね。安定したピッチングで、これじゃあ絶対に打てないと思ってましたね」
入院後、早々に食欲は復活していた。むしろ、栃木から駆けつけ、病院で付き添った母の方が、心労から食べられない状態になっていたという。
薬を服用し、検査で2回続けて「陰性」が確認された八木沢さんは、準々決勝・岐阜商戦が行われた17日に退院。一週間ぶりにナインと合流し、拍手で迎えられた。
回復した当時を語る口調は弾む。
「ユニホームを病院に持ってきてもらって、それを廊下で消毒させられて、風呂に入って。甲子園では佐伯さん(高野連副会長)にあいさつに行って『元気になりました。すみませんでした』と謝罪して。それからベンチに入りました」
点差がついた展開となり登板を打診されたが、断ったという。
「1回投げるかと聞かれたんですが、一週間やってないし、体が浮いた感じだったので」
エースが無理を押して登板する必要がないほど、背番号11をつけた加藤投手は好投を続けていた。
八木沢さんの退院を祝うように、チームは岐阜商に9-2と大勝。史上初の春夏連覇へ向けて準決勝進出を決めた。(デイリースポーツ・若林みどり)
◇八木沢荘六(やぎさわ・そうろく)1944年12月1日生まれ。栃木県出身。作新学院、早大を経て、66年のドラフト1位で東京(現ロッテ)入団。73年にプロ野球史上13人目の完全試合を達成、最高勝率・875を記録した。在籍13年で394試合に登板。71勝66敗8セーブ。防御率3・32。92年から94年途中までロッテ監督。ロッテを含め、西武、横浜、巨人、阪神、オリックス、ヤクルトと7球団のコーチを歴任した。日本プロ野球OBクラブ理事長。




