【野球】池山2世になれなかったヤクルト・ドラフト2位の住友健人さん 母校で恩師とともに名門復活果たす

 住友健人さん
 鳴門の先輩で現在松茂町会議員を務める元広島の川端順さん(右)と住友健人さん
ヤクルト入団会見での住友健人さん
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 プロ生活7年、1軍出場はわずか6試合に終わった元ヤクルトの内野手、住友健人(はやと)さん(49)は現在、三井住友海上エイジェンシー・サービス株式会社の社員として働きながら、母校・鳴門のコーチを務めている。

 走攻守三拍子そろった右投げ左打ちの内野手だった住友さんは、松井秀喜内野手争奪で沸いた1992年度ドラフト2位でヤクルトに入団。池山隆寛内野手の背番号「36」を受け継ぎ、池山2世として期待された。

 ドラフト前には内野手として東の井口(資仁、国学院久我山、ロッテ前監督)、西の住友と騒がれた。

 「井口が青学(大)に進学を表明し、どんどん評価が上がったんです」

 ある記者から「阪神が3位で指名する」という情報も伝えられることもあったが、ドラフト会議では2位で菊地原毅投手(現広島コーチ)を抽選で外したヤクルトから2位指名された。

 「もともとは巨人ファンだったんですけど、92年にヤクルトが優勝したこともあり、あこがれもあってプロに入りました」

 希望に満ちあふれ、ヤクルトのユニホームに袖を通した。

 しかし、周囲の期待とは裏腹に伸び悩み、なかなか1軍に上がることができなかった。

 体の細さが指摘され、2軍監督だった八重樫幸雄さんから朝食をしっかりとるようにと指令が下った。

 寮ではバイキング方式で朝食が提供されていた。ある日、早めに寮に来た八重樫2軍監督に少なめの朝食を見つかり大目玉を食らった。「2回やり直しをさせられました」と遠い昔を思い返した。

 7年のプロ生活で1軍に昇格したのは最終年のみ。それでも秋季キャンプのミーティングでは、野村ID野球を肌で感じることもできた。

 「野村(克也)監督が白板にメモを書くんですが、松井(優典)ヘッドがすぐ消すんです。ノートに必死でメモを書きました」

 今でもそのノートは財産となっている。

 99年、若松政権下で1軍に昇格したが、6試合9打数無安打。この年限りで戦力外通告を受けた。

 現役引退後は保険の外交員をする一方で社会人野球のクラブチームに所属したり、中学硬式野球チームの指導もした。

 そして14年、高校時代の恩師でもある森脇稔監督が指揮する母校・鳴門のコーチに就任。現在も主に守備、走塁を指導している。

 鳴門は1950年夏に準優勝、51年春に優勝したものの1970年代から2000年代くらいまで低迷を続けた。

 住友さんの現役時代も甲子園は遠く、再登板した森脇監督が2010年に15年ぶりに夏の甲子園出場に導くと上昇ムードに乗った。

 そこにプロで実績を残すことはできなかったが、プロで学んだことを住友さんが注入した。

 就任当初、試合前の内野ノックをするとポロポロとエラーをする。口に出たのが「シートノックのときから試合は始まっているんだよ」と、2軍時代に水谷(新太郎)コーチから言われた言葉だった。

 「気持ちが入っていないとケガもしますから。自分が学生の時は分からなかったけど、何より大事なのは取り組む姿勢」

 プロに入りレベルの高い野球を経験したことを部員たちに説いた。

 昭和の野球で育った住友さんは「技術の前に人としての姿勢が大切」と野村元監督の言葉を大切にする。

 「今の子は手を出すのはもちろんダメだし、言葉も選んで言わないといけない」

 指導の難しさを感じながらも、ヤクルト時代に学んだことを後輩たちに伝えている。

 14年にコーチになり夏6回、春1回と甲子園に出場している。恩師の森脇監督とともに見事に名門復活をなしとげた。

 サラリーマンを続けながら母校の指導。甲子園出場はうれしいが「月初めは会社で資料を作らないといけないので、それから有給休暇をとって甲子園に行くんです」と、夏の甲子園での苦労もある。

 今年は6年ぶりに開催された1990年、2000年代に戸田寮(戸田市美女木=びじょぎ)に住んでいたヤクルトOBが集まる「美女木スワローズ会」に出席し刺激を受けた。

 同じ釜の飯を食った仲間が今は各方面で活躍する。再び故郷に戻ってきた住友さんは、これまで以上に地元の野球発展に力を注ぐ覚悟を決めた。

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