【野球】侍JAPANの金メダル王手に、ロスの金メダリスト律儀な虎戦士・和田豊を思う

阪神・和田豊球団本部付テクニカルアドバイザー
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 東京五輪で正式競技として初の金メダルを狙う野球・日本代表が、7日の決勝戦に進出した。公開競技として行われた1984年のロサンゼルス五輪で金メダルを獲得して以来となる、日本球界にとって悲願に王手をかけたことになる。

 ロス五輪には、その後プロ野球で活躍するメンバーが名を連ねている。私はプロ野球記者として取材しただけでも広沢克実、伊東昭光、宮本和知、正田耕三ら10人以上の選手がいる。その中で思い出深い選手のひとりが現在、阪神タイガースの球団本部付テクニカルアドバイザーを務める和田豊である。

 私は諸事情で平成元年のキャンプ期間中に、長年担当していた広島から阪神の担当となった。阪神の選手で直接話した記憶があるのは、それ以前に広島の川端順に間を取り持ってもらった平田勝男、池田親興の2選手ぐらいなものだった。そのため、他紙の若手記者に混じって取材活動だったが、広島に比べ阪神では担当記者の数が桁違いに多い。なかなか一対一で取材をするのは難しかった。

 そこで、ない知恵を絞って考えたのが、東京遠征の際の移動時間を利用することだった。新大阪-東京間の移動時間は確か3時間以上だった。幸いなことに2000年3月のダイヤ改正で消滅したが、当時は16両編成の8両目に食堂車が連結されていた。その食堂車に選手を誘い、取材しようと考えたのだ。

 そして最初のターゲットとして考えたのが、故村山実監督から中野佐資、大野久とともに「阪神タイガースの少年隊」と命名された和田だった。実は阪神担当になり、オープン戦で一番初めに試合後の談話を取りにいったのが和田で、目を付けていた。年齢は私よりも若干下だったが、そのしっかりとした受け答えが印象に残った選手だったからだ。

 しかも、88年に遊撃の定位置を獲得して127試合に出場。打率こそ・279だったが、当時の日本記録を更新する56犠打をマークするなど売り出し中だった。

 堅実な守備や小技のうまさを考えれば、その後、さらに阪神の中心選手になると思い、あるとき「今度の東京遠征のときに、新幹線の食堂車で取材させてくれない。和田は千葉の出身でしょ。俺、東京なんだよね。近県のよしみでお願いします」と、必死の思いで声を掛けたのだ。

 和田は「分かりました。京都を過ぎたぐらいに食堂車に行きますから、待っていください」と快くOKしてくれたと思う。時間にして1時間ほどだったか。その時点で原稿にしたい話から、家族や高校、大学時代の話まで根掘り葉掘り聞いたが、こちらが恐縮するほど丁寧に対応してくれた。

 阪神担当を外れてからは、敵チームの担当記者としてあいさつを交わす程度になってしまった。そんな中、ヤクルト担当時代、故野村克也監督から「和田のライト前ヒットは芸術的やな。そう和田に伝えてくれ。あれでいいんや」と言われ、伝言しにいったことがある。そのとき、和田が律義に発した「野村監督によろしくお伝えください」という言葉を鮮明に覚えている。=敬称略=(デイリースポーツ・今野良彦)

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