【野球】元広島・高橋慶彦の手術で思い出した先発5人スイッチヒッターの可能性があった時代

 もし、松林和雄(58)が外野の定位置を獲得していれば、広島にスタメン5人がスイッチヒッター(左右打ち)という夢のオーダーが何度も実現していたことだろう。赤ヘル軍団の黄金期メンバー高橋慶彦が、人工股関節置換術を受けたと聞いた。高橋といえばスイッチヒッターとして有名だが、実は先発オーダーに左右打ち4選手が名前を連ねた試合を取材したことがある。

 1988(昭和63)年6月25日、福島県営あづま球場で行われた広島-大洋(現DeNA)9回戦である。阿南準郎監督が指揮を執っていたこの年の広島は高橋に加え、左右打ちである山崎隆造、正田耕三が定位置を獲得していた。この試合も1番正田、2番山崎、3番高橋のオーダーだった。ここにプロ8年目で左右打ちの松林が、6番左翼手として初スタメン出場を果たしたのである。

 1980(昭和55)年のドラフト会議で3位指名され、柳井商高から入団した松林の1軍でのプレーを目の当たりにした人は少ないだろう。だが、実は松林という選手は「スカウトの神様」と呼ばれた故木庭教がほれ込んだ逸材だった。

 80年のドラフト会議は巨人がドラフト1位で現監督の原辰徳を、また2位で駒田徳広を指名するなど人材がそろっていた。その会議での3位指名。広島の松林への評価は高かった。

 広島担当時代、木庭取締役スカウト部長と松林の話を何度もした。私が「木庭さんにしては珍しく目が曇ったんじゃないですか。なかなか1軍に上がったきませんけど」というと。答えは毎回同じだった。「絶対に活躍できる。いい選手じゃ」とぶぜんとした表情をみせたものだった。

 だが、打撃が今ひとつでプロ7年目までは鳴かず飛ばず。初めて1軍の打席に立ったのは、背番号を「55」に変更した88年6月21日、福山市民球場で行われた広島-中日12回戦。6回裏の白武佳久の代打としてだった。そして25日には先発出場し二回無死一塁の場面で、欠端光則から右前にプロ初安打を放った。

 試合後に安堵(あんど)の表情を浮かべ「もう少しでクビになるところでした。クビになったら他球団のテストを受けても野球を続けたいと思っていました。きょうは本当にうれしい」と言葉を弾ませたことを覚えている。

 その年は1安打に終わったが、翌年からの飛躍を誓い結婚を決意。翌89年1月7日に、披露宴を催す予定になっていた。私にも招待状が送られていたが、昭和天皇の御崩御の日と重なり、披露宴は自粛したはずである。

 松林は89年に20試合に出場したが、90年にダイエー(現ソフトバンク)に移籍した。広島には投手ながら左右打ちの川口がいた。もし、松林が定位置を獲得していれば、スタメン5人が左右打ちという前代未聞のオーダーが何度も楽しめたはず。そう考えると残念でならない。=敬称略=(デイリースポーツ・今野良彦)

 ◆松林和雄(まつばやし・かずお)1962年6月28日生まれ、58歳。右投げ両打ち。外野手。山口県出身。1980年度ドラフト3位で柳井商高から広島に入団。90年にダイエー(現ソフトバンク)に移籍し同年限りで現役を引退。広島での背番号は「52」「15」、「55」、ダイエーでは「52」。1軍通算成績は38試合に出場、43打数7安打2本塁打。

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