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【野球】智弁和歌山前監督・高嶋仁氏 48年間の指導にかけた情熱と心に響く言葉

 2008年10月。高校野球の強豪・智弁和歌山で監督を務めていた高嶋仁は、お遍路の白装束を着て徳島県から高知県へ抜ける山道を歩いていた。

 「朝5時から晩5時まで12時間、歩きっぱなし。お遍路さんが白衣を着ているのは、途中で亡くなったら、それを着たまま埋葬されるから。昔の人は命がけで歩たんですね。僕は野球しかやってこなかったので、いい勉強をさせてもらった」 甲子園で94年春、97年夏、00年夏と3度の優勝を果たし、全国屈指の名監督だった高嶋が、和歌山のグラウンドから遠く離れた四国路を歩いたのには訳があった。

 ちょうど1カ月前、練習試合で野球部員への暴力をふるったことが発覚。3カ月の謹慎処分を受けた。高嶋は辞表を胸ポケットに忍ばせ、藤田照清理事長の部屋をノックした。

高嶋が部屋へ入るなり、藤田はこう言った。

 「甲子園で優勝もしてくれたし、お前には言うことはないから、歩いてこい」。

 教育者で学校経営者、僧侶でもあった藤田の「歩いてこい」とは、四国八十八カ所巡礼の旅を指した。そして高嶋はお遍路の旅に出たのだった。

 「野球しかやってこなかった」という高嶋の人生は、言葉通り野球一色だった。

 長崎県の五島列島のひとつ、福江島に生まれた高嶋は、海星で2年夏と3年夏に甲子園出場を果たし、日体大に進学。1970年、智弁学園で指導者になった。

 48年間の指導者生活について、高嶋は後に「選手を甲子園に連れて行きたい。その一心でした」と語っている。

 趣味といえるのは年に1度の海外旅行くらい、という高嶋は、野球と学校生活に没頭してきた。甲子園にこだわったわけは、高校2年の夏に出場した甲子園の鮮烈な思い出にあった。

 入場行進で甲子園の土を踏みしめた高嶋少年。「純粋に、ガタガタ震えるくらいに感動した。今度甲子園へ来るのは指導者やなと。人には言うてないけど、気持ちの中では決めていた」と決意した。

 大学は日体大へ。しかし、両親に経済的負担を掛けさせないため1年浪人し、アルバイトで進学資金をためた。

 大学時代も野球の傍ら、深夜に肉体労働のアルバイトをこなし、野球道具や遠征費を捻出。「しんどいと思ったことはない。それが今に生きていると思う。指導者になりたいというのがあって、苦労ともなんとも思わなかった」

 智弁学園に赴任した高嶋は、甲子園を目指して選手と一緒に白球を追った。しかし、何度も壁にぶつかった。

 70年代、奈良では天理が甲子園の常連だった。高嶋率いる智弁学園は奈良大会で何度も天理の壁に阻まれた。結果が出せず、高嶋は3年の間に3度、学校に辞表を出している。「甲子園へ出られんから、もうあかんなと思って」。しかし、そのたびに学園専務理事の藤田照清が辞表を破り捨て「こんなん書く暇あったら、もっと練習せい!」と叱咤激励した。

 「だからそれまで以上にキツい練習をした。天理を倒さないと甲子園へ行かれへん。天理の倍、練習しようと思っていた」と高嶋は猛練習を重ねた。そして75年秋、新チーム結成直後に事件が起こる。

 あまりの厳しさに、選たちが練習をボイコット。高嶋が「そのおかげで今がある。その時のキャプテンに甲子園へ連れて行ってもらったんや」という、指導方針の転換期が訪れた。

 それまで一方通行の厳しい練習を課してきたことを反省。翌日、集まった選手と腹を割って話し合った。「僕はもう辞めるつもりで自分の思いを伝えた。天理を倒して甲子園へ行くにはこれくらいのことをしないと勝てない」と説得。

 若い監督の率直で熱意のこもった言葉は選手の心を動かした。「キャプテンが『監督、分かった。ついて行く』と言ってくれてね。そこで初めて、監督と選手が結びついたような気がした」

 翌76年センバツに高嶋は智弁学園の監督として初めて出場した。入場行進で甲子園のグラウンドを歩く選手を見て、涙が止まらなかったという。

 「辞めよう。もう辞めなあかんな。オレの指導はだめやな、と思い続けただけに、うちの選手が歩いてきたのを見てボロボロ泣いた。辞めなくてよかったって」

 智弁学園では春夏3度の甲子園に導き、77年春にベスト4。結果を残し始めた高嶋に突然、新設校の智弁和歌山への転勤の内示が下る。

 ある程度の下地があった智弁学園とは違い、智弁和歌山は創立されたばかりで野球部も同好会のような形。当初は数十人が在籍したが、高嶋が監督に就任した1980年春。グラウンドへ行くと、選手はわずか3人になっていた。

 「『奈良から怖い監督が来るらしい。殺されるぞ』って、来なくなったらしい。まあ、半分は当たっとるな」

 仲間を呼び戻させ、15人ほどでスタート。高嶋は、まずは選手たちに実力を肌で感じさせようと、練習試合を計画した。しかし新設校のためか県内で練習試合の相手をしてくれる学校がない。「智弁って奈良やろ?和歌山にもあるん?」と嫌味を言われるほどだった。

 何とか打開しようと智弁学園時代のつてで四国の学校に練習試合を頼み込む。快く受け入れてくれたのが、当時強豪だった池田の蔦文也だった。

 新設校の智弁和歌山と強豪校の池田。結果は目に見えていた。「何十点取られるか分からん。選手らは半べそかいてね。勝負というのは厳しいよって、蔦さんは教えてくれたんと違うかな」。

 点差が開いていき、選手たちが試合中に泣き始める。高嶋はその涙を見て、20年かかると見ていた甲子園への道が、もっと早くなると確信した。

 「やっぱり自分で感じるんよな。なぜこんなに違うんかな、同じ高校生やのに、と。悔しさを知ると必死になって練習する。それがよかったんでしょう」。選手たちの目の色も取り組み方も明らかに変わったのを実感した。

 高嶋の人生と四国路は、若いころから不思議な縁で結ばれていた。ことあるごとにヒントを与えてくれたのは四国ゆかりの人物だった。

 目指した指導者像は土佐高校の籠尾良雄。その理由は智弁学園コーチ時代の四国遠征で、土佐と練習試合をした時の思い出にさかのぼる。

 高嶋は外野で球拾いをしていた選手に話しかけた。「君はなぜ土佐高校へ入ったの?」。

 その選手は「勉強ができるから入りました」と即答。高嶋は「僕の持っているイメージでは、高校で野球部へ入ったら(部活が忙しくて)勉強できないと思っていた」と、さらに質問を重ねた。

 なぜ勉強ができるのか。土佐では、野球の練習が終わると寮で食事や入浴を済ませ、その後に必ず勉強の時間が取られていたという。「高知市内にいる野球部のOBが寮へ来て、後輩の勉強をみてくれるらしい。それが伝統になっている」。目からウロコが落ちるような気がした。

 自主性を重んじた文武両道の指導に驚くとともに「やっぱりこういう学校を目指さなあかんな」と強く思うようになった。

 ◇

 高嶋の教え子たちが、厳しい練習を乗り越えた上で「この監督についていきたい」と感じるのは、ノック1球、言葉1つに精神的なつながり感じ取ったからだ。

 お遍路でもそうだった。疲れて足が痛く、もう歩けないと思った時にも、すれ違う人に「ようお参り。気つけて行きや」と声を掛けられると、生き返ったような気がしてまだ1時間、2時間と歩き続けることができるのだった。

 「言葉というのは、人間を生き返らせる。これは絶対に野球に使えると思いました。選手が困っている時にいい言葉を掛けたら、選手は生き返る」。1カ月前に辞表を書いていた高嶋が、歩きながら考えていたのはやはり、野球のことだった。

 高嶋が智弁和歌山に赴任したのと同時に入学し、のちに主将を務めた野球部OB名誉会長・塩崎英樹は振り返る。

 「身体の小さい僕がなぜ主将に選ばれたのかを考えると、僕は手を抜かなかったんです。高嶋監督が一番嫌いなのは手を抜くこと、ふてくされること。それを僕が感じていたから。だから信用できると指名してくれたんでしょう」

 高嶋の教えで印象に残っている言葉は「コツコツ努力する者は最後に勝つ」ということ。「手を抜くやつは大事な局面で何か失敗する。まじめにコツコツ努力するやつは最後に結果が出て、いい方向に行くということでしょうね。だから日々努力しろよと」

 野球道具を大事にさせることも徹底した。自身が学生時代、裕福ではない環境で両親に頼み込んで野球をさせてもらったという思いがあったのだろう。

 高嶋は「グローブは何万円もするんや。お父さん、お母さんがどれだけ高いお金を出してくれるか知ってるか?買う時はオレの許可を得にこい」と物の大切さを教え続けた。創部当時は道具にかけられる費用も限られており、破れたボールは選手と一緒に縫った。

 甲子園常連ではなかった当時は、甲子園を経験することなく卒業する世代も多かった。夏の和歌山大会で敗退すると、高嶋は3年生1人1人の手を握り「オレはお前らを甲子園へ連れて行くと約束したけど、よう連れて行かんかった。すまんかった」と声を震わせ号泣したという。

 ◇

 08年、お遍路を終え、3カ月の謹慎期間が明けると高嶋はグラウンドに出た。選手たちに「オレが監督でええか?」と聞くと「よろしくお願いします!」と元気な声が返ってきた。高嶋は勢いよく「よし、100メートル走100本や!」。選手からは安堵(あんど)の笑いがこぼれていた。

 半年後の09年夏に和歌山大会を制した。高嶋が手塩にかけたエース左腕・岡田俊哉(現中日)が準々決勝から3試合連続完封。高嶋は再び聖地に戻った。この大会で2勝し、PL学園・中村順司に並ぶ通算58勝を挙げた。

 その後、勝利数を単独トップの68勝まで伸ばした高嶋。しかし、14年ごろから体の異変を感じていた。血液を構成する成分が薄くなる「国指定の難病」を患ったのだ。「グラウンドからトイレまで行くのに息が切れる」。ドクターストップにより、ノックも打てなくなっていた。

 最後に勝利を挙げたのは、準優勝した18年センバツ。決勝で大阪桐蔭に阻まれた。夏は大阪桐蔭へのリベンジと優勝を胸に秘め挑んだが、甲子園初戦で近江に敗れた。

 同年8月25日、高嶋は勇退会見に臨んだ。バトンを渡したのは97年夏に主将、捕手として全国優勝を果たした中谷仁。卒業後に阪神、楽天、巨人でプレーし、母校のコーチとして恩師の元へ帰っていた。

 中谷は高嶋に教わったことをこう振り返る。

「高嶋先生は、教えない教え。アプローチは自分で考えなさいという感じ。普通、指導者はいろいろ教えようとする。でも高嶋先生は、結果を出すためにどうすればいいか考えろと。教えを待っているのではだめ。チャンスで打てないと『なんで打たんのや!』と怒られる。だから自分で工夫していくことを考えていました。普段からこの1球に対する集中力を出していくとか」

 その教えは伝統として、新しいチームにも引き継がれていく。「先生の背中を追いかけてではないけれど、気合の入ったノック、高嶋先生に教わったものを生かしたい。プレッシャーはあるが、高嶋先生が築いてきたものを継続して、先まで行きたいという思いは強い」

 18年12月、和歌山市内で開かれた智弁学園・智弁和歌山OB会による勇退パーティーであいさつに立った高嶋は、かつての教え子たち約200人に語りかけた。

 「僕は『誰のために試合をするんや?』と選手に聞きます。自分のため、親のため…と答えが返ってきますが『違う!補欠の選手のためにするんや』と伝えてきました。補欠の選手がいないと何もできない。勝って感謝の気持ちを伝える。補欠の選手に支えられて『智弁の高嶋』があると思います」。

 甲子園という目標に向けて選手と一丸で戦い続けた、高嶋らしい言葉だった。

 高嶋は勇退後、野球界の将来に向けた取り組みに尽力している。19年には日本高野連の「投手の障害予防に関する有識者会議」にゲスト参加した。

 投手の故障防止には常に細心の注意を払ってきた。それには中谷仁主将で夏の甲子園初優勝した97年の経験が影響している。

 右肩などに故障を抱えたエース・高塚信幸を初戦の日本文理戦で先発させたが、1回2/3を5失点で降板。この夏、最初で最後のマウンドだった。2年生だった前年のセンバツで5試合のうち4完投し、準優勝の立役者に。

 しかし合計712球を投げ、直後にAAAアジア野球選手権大会に出場するなど負担が重なり、長く故障と戦ったのだ。

 高嶋は「僕の気持ちとしては、あの大会は一生残ります」と今も高塚の1年半の苦闘を思い続ける。「投げさせ過ぎた。(高塚)本人はそれが原因とは一切言わないですけどね。以来、投手は継投です」。球数制限が論議される前から、複数投手で試合を組み立てることが多かった。

 延長タイブレークや球数制限など、選手の体を守るための新たなルールができ、高校野球は新時代に入っている。自身も48年の指導者人生の中で、時代の変化を感じてきた。

 「指導者には、技術だけでなく選手の人間性を成長させてやってほしい。世の中に出て人間的なレギュラーになれる人材をね」。ユニホームを脱いでも情熱はまだまだ冷めない。それは、高嶋が生涯をかけて高校野球にささげる恩返しなのだ。(敬称略 デイリースポーツ・中野裕美子)

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