【野球】大島康徳さんは優しく、熱い闘将 がん克服を願う

選手に声をかける大島康徳監督=名護(2000年2月撮影)
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 これがプロ野球の世界かと衝撃を受けた。20年前の2000年。入社から数年がたち、プロ野球担当になった記者は、北海道移転前の日本ハム担当を命じられ、就任1年目の大島康徳監督(現・野球評論家)のもとで鍛えられた。

 それまでボートレース担当をしていたが、プロ野球界のしきたりが全く分からない中、無我夢中で取材をした。名刺を差し出し、これまでの仕事歴を明かし、あいさつ。いきなり「野球はボートと違うんだからな。1号艇、2号艇、5号艇じゃないんだぞ。プロ野球なんだからな」。くぎを刺され、冷や汗をかいた。その後も監督に厳しいお小言を受けては、へこんでしまうこともあった。

 ユニホーム姿の大島監督はいつでも熱かった。選手のためならと、親分肌でチームを引っ張る。小笠原、片岡や、東京ドームの看板直撃弾を何度も見ることができたオバンドーに、ウィルソン、田中幸に下位には金子誠。「もともと潜在能力の高い選手たちだから。俺は信じているよ」。選手を信頼し、その期待に応え4月を終え首位。最終的に3位に終わったが、どこからでも得点できるビッグバン打線を看板に優勝争いに加わった。この年の本塁打は2位のダイエーを大きく引き離すリーグトップの177本塁打。ただ、強力打線だから、他球団のマークは厳しかった。必要な内角攻めで死球を受ける主力もいたが、体を張って選手を守る姿が思い出される。

 乱闘騒ぎ後の取材も、緊張感が走る。「意図的とは思ってないけど、こっちも(内角を投げる投手は)いっぱいいるんだ」。当時のメモにはこう記してあった。選手のためならと。中日時代からの先輩で尊敬してやまない故・星野仙一氏と並び、大島康徳監督も闘将だったと思う。

 ただ、野球から離れると、優しい一面もみせてくれた。当時の記者の住まいと大島邸が近所だったこともあり、街中でよくでくわした。とある年の初詣では、仲良く参拝していた夫人と2人でいるところを見かけた。駅前のスポーツジムでも息子さんと一緒に自転車型トレーニング器具をこぐところも。グラウンドとは全く別の顔を見せる姿はよき一家の父親なんだなと感じた。

 大島元監督は、大腸がんと戦っている。本人のブログ「ズバリ!大島くん」で一時退院の記事を読み、連絡を入れた。「お元気そうでよかったです」と言うと「元気だけじゃがんには勝てないんだぞ!」。日本ハムの監督の時の“大島節”に少し安心した。決して楽観を許さない状況だが、治療でがんを克服して、これからも歯に衣(きぬ)着せぬ世評、解説が、聞けるようにと願う日々だ。(デイリースポーツ・水足丈夫)

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