清宮だけじゃない、早実もう一つの物語

 ベンチで声を張り上げる子がいた。大物ルーキーの清宮には「硬くなってるぞ」と、緊張をほぐすようなアドバイスを送った江上太悟郎記録員(3年)。父は82年、83年に池田で夏春連覇を達成した際の“やまびこ打線”で3番を任された江上光治さん。かって聖地を沸かせた江上の名が今、早実に欠かせない存在になっている。

 練習のサポート、1年生の教育係、宿舎でのマネジャー業務などなど。記録員としてベンチでスコアをつけるだけでなく、その仕事は多岐にわたる。マネジャーを志願したのは新チーム発足時。自分の実力、周囲の状況を鑑みて和泉監督に自らの意見を伝えた。指導者から「秋まで選手で頑張ってみては?」と伝えられたが「チームが不安定になるので。選手と違った立場からでも貢献できると思ったので」と選手とは違った立場、裏方としてチームを支える決意は固かった。

 「悩みもありましたね。半月くらいはこれでいいのかと悩んだ」と江上。野球を始めたのは早実初等部に在籍した小4から。きっかけとなったのは06年、夏の甲子園で早実・斉藤と駒大苫小牧・田中の投げ合いを目にしてからだった。早実のアルプススタンドから母と一緒に観戦。目の前起こる壮絶な投げ合いに心を打たれた。延長十五回で引き分けた試合、翌日の再試合もすべて観戦した。

 早実の優勝が決まった瞬間、後ろに座っていた母に向かってこう言った。

 「僕が9年後、お父さん、お母さんを甲子園に連れて行ってあげる」-。

 それまでは体力作りのため他のスポーツをやっていた江上。聖地で伝説を作った父は息子の思いに「何も言いませんでした。放任主義ですから。すぐ入れるチームを探した」と笑う。星ヶ丘キッズで軟式野球を始め、中学は早実中等部の軟式野球部に所属。捕手、内野手として活躍した。

 父にとって早実は奇しくも82年、夏の甲子園準々決勝で対戦した相手。甲子園のアイドルだった荒木大輔氏(現・野球評論家)から先制の2ランを放って圧倒した。それだけに「(息子が早実野球部に入部して)いいのかなという思いはありましたけど…。複雑でしたね。でも息子の人生と僕の人生は別ですからね」と光治さん。2年の秋から息子がマネジャーを目指すことになったときは、こう背中を押したという。

 「主将、4番、マネジャーと言った特別な役割は1人しかできない。お前次第で勝てるか勝てないかが決まるんだぞとね」と背中を押した光治さん。自身も社会人野球の名門・日本生命で27歳からマネジャーへ転身した。「池田が(83年の夏に)3連覇を目指したときに主力と控えの中で温度差が出たのが心残りだった。そういう意味で支える人間になれれば」。日本生命の黄金期を影で支えた父の背中を息子は見ていたからこそ、チームに貢献する場所を探したのかもしれない。

 ことあるごとに光治さんはメールで息子にアドバイスを送った。「ここで勝てば勢いに乗るぞ」「甲子園が見えてきて気持ちが緩む頃だから気をつけて」-。西東京大会中は勝ち進むにつれて、自らの経験を惜しみなく伝えていたという。

 そして聖地のグラウンドで歌った校歌。「神宮の時とはまた違った感覚でした」と江上は満面の笑みを浮かべた。アルプス席で観戦した母は「本当に約束を果たしてくれて」と涙を浮かべ、声を詰まらせた。高校野球100周年の年に名門・池田、早実、そしてマネジャー業務という3つのキーワードが重なり合った第1試合-。ドラマを持っているのはグラウンドでプレーする選手だけではない。(デイリースポーツ・重松健三)

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