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90歳甲子園マンモススタンドの誕生秘話

 今年も数々の名勝負を残して夏の高校野球は閉幕した。熱戦の舞台となった甲子園球場は今年8月1日、90歳の誕生日を迎えた。阪神の前身である大阪タイガースの球団創設が1935年12月10日。「甲子園大運動場」として1924年に開場した同球場の方が10年以上も歴史が古い。

 星稜高時代の1992年夏、甲子園での5打席連続敬遠という伝説を残し、プロ入り後は巨人、ヤンキースなどで大活躍した松井秀喜氏は甲子園90歳に際して次のような称賛コメントを寄せている。

 「美しい土や芝、巨大なスタンドは別格。ほかの球場と空気が違う。米国の歴史ある球場と比較できるのは、日本では甲子園しかない」

 甲子園については命名の由来など、球場建設時のエピソードは数多く伝わっている。松井氏が触れた「巨大なスタンド」誕生の背景にも一つのドラマがあった。

 主任設計技師に抜てきされ甲子園建設に従事したのが、のちに阪神タイガース球団オーナーも務めた野田誠三氏(1895~1978年)である。野田氏は旧制姫路中(現姫路西高)から八高(現名古屋大)、京都帝大工学部を経て阪神電鉄へ。入社1年余だった野田氏は当時の三崎専務から「日本一大きい野球場をつくれ」と指令されたのが始まりだったとされる。

 当初、三崎専務からは「スタンドは30段にせよ」と指示された。当時の中等学校野球の大会会場であった鳴尾球場が仮設の木製スタンド10段で収容5000人ほどだったことから、スケールの大きさが想像できる。だが、若き日の野田氏は「どうせやるなら、50段にしましょう」と言い放ったという。

 日本国内に資料は存在せず、アメリカから雑誌や書籍を取り寄せることから始まった。辞書を引きながら、英文と格闘し、野田氏は「日本一大きい野球場」の設計図を書いていった。ちなみに現在の甲子園最上段は外野席が52段、アルプス席は63段である。

 1924年3月10日に着工。「夏の(中等学校野球)大会に間に合わせろ」との厳命を受け、約5カ月で完成にこぎつけた。単純比較はできないが、シーズンオフを利用した2007年からの甲子園リニューアル工事が10年3月までかかったことを思えば、驚くほどの突貫工事であったことが分かる。

 建設途中に視察に訪れた球界関係者から「こんなにスタンドが大きいと客席からボールが見えないだろう」と苦情も出たという。そのたびに設計責任者の野田氏が説得した。

 8月13日、完成したばかりの甲子園で第10回全国中等学校野球選手権大会が開幕した。初日、第2日と観客の入りは悪かった。「こんなバカでかい球場をつくってどうするんだ」という声が聞こえた。週末を迎えた大会第3日。地元勢の出場も加わり、午前10時には満員札止めとなった。この日の感激を野田氏は生涯忘れることがなかったという。

 1974年12月には“聖地”設計の功績が認められ、野球殿堂入りを果たした。その野田氏は私の母校の大先輩にあたる。これらの話は私が高校入学時に配られた「学校人脈 姫路中・姫路西高」という本の中で幾多の卒業生の逸話とともに紹介されていた。入学直後に野球部に入部した私は先輩の偉業を初めて知ると同時に卒業後の今も誇りに思っている。

 野田氏の後輩はただ一度、1936年の選抜大会で甲子園の土を踏んでいる。昨夏は県内屈指の公立進学校である彦根東高が滋賀大会、丸亀高は香川大会を制して甲子園出場を果たした。今夏は青森大会で青森高、愛媛大会でも松山東高という文武両道を目指す県立の進学校が地方大会決勝で涙をのんだ。

 兵庫大会162校の頂点に立つのは簡単ではない。しかし、松井氏の母校である星稜が九回に0‐8から大逆転した今夏の石川大会決勝を例に出すまでもなく、野球は最後の最後まで何が起きるか分からないスポーツでもある。

 いつの日か甲子園を設計した野田氏の後輩たちが再び聖地でプレーし、松井氏が「別格」と評した60段超のアルプス席を在校生と卒業生で埋める日を夢見ている。

(デイリースポーツ・斉藤章平)

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