新野新 「ぬかるみ」放送後に「魔の館」に付いてきた「ぬかる民」たち

 昭和の伝説的ラジオ番組「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」は1978年4月9日にひっそりと産声をあげた。後に“ぬかる民”と称される熱心なリスナーからのハガキを元に、笑福亭鶴瓶と新野新の“うだうだ話”が始まり、時に予想を超えて展開した。女子高校生からの投書がきっかけとなって実現した「新世界ツアー」はその好例だ。番組を企画した当時のディレクター岩本重義の証言を織り交ぜながら新野に振り返ってもらった。=敬称略=

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 -「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」の企画で大阪のディープタウン「新世界」を歩こうという企画「新世界ツアー」が持ち上がった。発端はリスナーからの投稿。岩本は「確か新世界の串カツ店でアルバイトをしている女子高校生からの手紙でした。新世界に一度来て欲しいと手紙で書いてきたんです」。岩本は参加者の数を700人くらいだろうと予想。鶴瓶と新野は1000人と見積もった。しかし、ふたを開けてみると5000人もの人々が集まり警察が駆けつける事態となった。岩本は「浪速署と機動隊本部に始末書を持って謝りに行きました」。ツアーは1980年に企画された。

 新野「あれは確か、放送が始まって2~3年してから行こっか、言うて行ったんやね。新世界ツアーでものすごい人が集まったんです。それを、朝日新聞が3面で9段抜きで載せた。そこからですわ。そこから『ぬかるみの世界』が世の中に知られるようになった。あの記事を書いてくれた朝日新聞の記者を探してるんやけど、もう亡くなってるやろね。あの記事はすごかった。あそこから始まったんよ。ぬかるみは」

 -番組にとってハガキを送ってくれるリスナーは重要な存在だった。投稿をネタに新野と鶴瓶の「うだうだ話」が始まる。岩本は「ハガキ、お便りは番組があった11年間、全て読みました。僕が全体の3分の1の数にして鶴瓶ちゃんに渡し、鶴瓶ちゃんがさらに3分の1に絞りました」

 新野「時々は(返事を)返しましたけどね。あの時のリスナーの方々も結婚したり子育てが終わったり、もうええ年になってるんやろね。僕と鶴瓶、男同士が汚い声でうだうだ話をして、ディレクターも何も言わへんかった。鶴瓶と『こんな番組にしよう』と思ったわけでも何でもないねん。深夜に放送が終わって、ラジオ大阪を出ると出待ちしてる人がおった。あの頃、僕の家は『魔の館』って呼ばれたんやけど、『タクシーで付いてくるか?』って聞いたら、ワーッと付いてきたことがあったわ」

 -新野は作家という裏方の立場でありながら番組に出演するという表の役割もこなし、幅広く知られ、人気を得た。

 新野「(ギャラは)僕は文化人ランクやったんや。3000~5000円やねん。テレビタレントランクになったのは『道頓堀アワー』(大阪テレビ、1958年)くらいからちゃうかな。『新・たかじんが来るぞ』(MBS、91年)で8万…10万…12万か…知らんけど、50万円じゃない。『新・たかじんが来るぞ』は20万円くらいかな。東京に行ったら30万円になるのか。そんなん、なんとも思わへん」

 -「ぬかるみの世界」は89年10月1日に惜しまれつつ終了した。今なお、「ぬかる民」がネット上などで懐かしんでいる。

 新野「ネットの僕の掲示板に来るのはいまだに『ぬかるみ』。あれは鶴瓶がこれから売れようっていう時期やった。売り出しやったもん。相手が僕やから、それが良かった。鶴瓶のパワー感じたかって?ぬかるみは僕。それは鶴瓶も分かっとった。僕が売れてくると、鶴瓶が僕のことを嫌になってきたんちゃうかな。それにしても鶴瓶はすごいよ。鶴瓶が出てるTBSの『A スタジオ』を見ていると、日本の芸能界で鶴瓶がどれだけ偉いかが分かる。三枝は偉くないやん。所ジョージなんか見てても何もおもろないで。『ぬかるみ』をやった時は僕が40代で、鶴瓶が20代の終わり。そんな組み合わせ、どっかにおるんとちゃうかな。鶴瓶ともう一回…やってもしょうがないですよ。

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 新野新(しんの・しん) 放送作家。1935(昭和10)年2月23日大阪生まれ。早稲田大学文学部卒。テレビ草創期、関西の各局でテレビドラマや演芸番組等の脚本・構成を担当。著書に「上方タレント101人」など多数。

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