元大関2代目・増位山さん死す 小兵ながら技能賞5回、史上初の親子大関 歌手でも活躍し「そんな夕子にほれました」が大ヒット

 大相撲の元大関2代目増位山の沢田昇(さわだ・のぼる)さんが15日午後2時38分、肝不全のため死去した。17日に日本相撲協会などが発表した。76歳。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。1981年春場所で現役引退後、同年名古屋場所から2013年九州場所までデイリースポーツ紙上の評論「三保ケ関親方 喜怒御免」でも健筆を振るった。美声の持ち主で現役時代の1974年に「そんな夕子にほれました」が大ヒットした。2013年11月に日本相撲協会を定年退職後は増位山太志郎として歌手活動に専念していた。

 増位山さんは2022年12月に体調不良を訴え、敗血症と診断された。箱根、伊豆などで療養していた。所属レコード会社は「最期まで活動復帰できることを強く望んでおりました。相撲を愛し、歌を愛し、たくさんの方々に愛していただいた人生でした」と追悼した。

 日大一高では水泳で高校総体に出場した。目標タイムに届かなかったため、角界入りを決意。三保ケ関部屋の師匠を務める元大関初代増位山の父に反対されたが「だったら春日野部屋に入る」と意志を示し、入門が認められた。

 1967年初場所で初土俵を踏んだ。70年春場所で新入幕。31歳だった80年初場所後に大関に昇進し、史上初の親子大関となった。年6場所制で当時最年長の31歳2カ月での昇進だった。

 業師として活躍し、左右の内掛けは名人技と評された。81年春場所で現役引退し、大関在位は7場所。技能賞5回。金星4個。三保ケ関部屋の同部屋だった北の湖理事長(元横綱=当時)は、沢田さんの退職時「右上手を取ってからの、引きずるような投げが強かった」と述懐している。

 現役時代から「そんな夕子にほれました」「そんな女のひとりごと」「男の背中」など数々のヒット曲に恵まれた。しかし、85年に日本相撲協会が力士、親方の副業原則禁止を決定。退職前に緩和され、新曲を発表するなど、歌手への道に進んだ。

 三保ケ関親方としては小結浜ノ嶋(現尾上親方)、幕内肥後ノ海(現木瀬親方)らを育てた。大関把瑠都は自身が入門させ、しこ名をつけた。

 後継者が見つからず、13年秋場所を最後に部屋は閉鎖。直後に大関時代の稀勢の里(現二所ノ関親方)が所属先の部屋が使用できなくなった際に、間借りしたことでも知られる。後にちゃんこ屋に改装も、現在は閉店。建物は壊され、9階建てマンションが建築中だ。増位山さんは2022年12月に行われた日本作詞大賞が、公の場では最後のステージだった。

 ◆増位山太志郎(ますいやま・だいしろう)元大関2代目増位山、元三保ケ関親方、本名沢田昇=さわだ・のぼる)1948年11月16日、兵庫県姫路市出身。誕生は9月16日だが、役所への届出が遅れたため正式な誕生日とずれが生じた。67年初場所で「瑞竜」のしこ名で初土俵。三段目だった68年夏場所で増位山を襲名。69年名古屋場所新十両。70年春場所新入幕。80年初場所で12勝を挙げ、5度目の技能賞とともに大関に昇進した。81年春場所で現役引退し、年寄・小野川襲名。父の定年に伴い、84年九州場所で三保ケ関を襲名し、部屋を継承した。協会では副理事、審判長などを務め、13年11月に定年退職した。

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