バスケ渡嘉敷来夢、恩師が語る変化とは

 4年に1度の祭典、リオデジャネイロ五輪開幕まであと50日と迫った。初のメダル獲得を目指すバスケットボール女子日本代表のエースとなった渡嘉敷来夢(らむ、25)=シアトル・ストーム=の成長を、愛知・桜花学園高時代の恩師・井上真一監督(69)が振り返る。何度となくかけ続けてきた言葉と、渡嘉敷の変化とは-。

 バスケ女子日本代表が最後に五輪に出場した04年-。100年に1人と言われる逸材はその年、バスケットボールに出会った。前年まで小学生だった渡嘉敷の活躍の場は、体育館ではなく運動場。小6の時には走り高跳びで全国優勝した。跳躍力はピカイチだったが、身長170センチ。陸上の強豪校からは“運よく”声が掛からなかった。

 04年4月、中1でバスケ部に入部。部員はわずか4人だった。公式戦に出られず、校長先生の勧めもあって近隣の強豪校に転校。中2で井上監督と出会った。「大きくて能力が高い子がいる」とうわさを聞いて、転校先の中学に見に行ったのだ。評判通りの身体能力。中3で全国大会に出場し、ベスト8に入った。しかし「ゴール下のプレーは全然だめ。基本はできていなかったかな」。専門用語はほとんど分からなかったという。

 桜花学園高入学後は二人三脚の日々だった。能力こそ一級品だが、素顔は悪ガキそのもの。じゃれ合いが高じて、チームメートとしょっちゅう取っ組み合いのけんかをした。怒られたことにいらつくと、そこかしこを殴った。寮の食堂の壁には、渡嘉敷があけた大きな穴があったという。

 努力は苦手。バスケ特有の接触プレーは嫌いだった。何でもできるオールラウンダーに憧れたが、当時の姿はほど遠い。足の動かし方やシュートのバリエーションなど、井上監督は徹底して基礎をたたき込んだ。練習では、とにかく走らせた。

 そうしたのは将来、渡嘉敷が日の丸を背負うという確信があったから。「日本代表は間違いない。WNBAに入れるってところまで考えて指導していた」。天性の跳躍力に加え、50メートル6秒台の俊足。才能を信じた井上監督は何度もWNBAの話をしたが、「ピンと来ないし、英語できないから無理~」と、かわされ続けたという。

 1年夏の高校総体で本格デビューし、全国優勝。それを含め9大会で優勝8度。2年夏の総体では、残り10分12点差から逆転優勝した。唯一の敗戦はその後の国体、準々決勝。「天狗(てんぐ)になったから」と恩師は振り返る。

 「意味分かるか?」井上監督はそう言って、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』と記した紙を渡嘉敷に見せた。「分かりません」「とにかく天狗になるなよ。選手としての伸びがそこで止まるから」-。もっと努力をしろと言い続けた。その後のU-18アジア選手権では、日本の初優勝に貢献し、MVPも獲得したが、褒めることは一切なかったという。

 直後に左足首の疲労骨折が判明。年末の高校選抜大会は、病院と試合会場の往復だった。仲間と練習ができないことが何より悔しかった。バスケへの思いの大きさに気付いた。決勝には間に合わせ、37得点。試合終了と同時に渡嘉敷は、コートにしゃがみ込んで泣いた。表彰式には松葉づえで出席。限界はとうに超えていたが、それでもコートに立ち続けた。

 その後は最終学年として、リハビリにもしっかり取り組み、シューティングなどの自主練習も、熱心に行うようになった。JX-ENEOSに入団後は集中力が続かず、苦しんだ時期もあったが「天狗になるな」という恩師の言葉は伝わっていた。「わたし、まだうまくなれるから。もっと努力する」。最近は自らそう口にするという。

 「100年に1人って言うけど、来夢に匹敵する選手は二度と出てこないかもしれない」。全国優勝59度の名将が出会った最高傑作。バスケに魅せられたわんぱく娘は、日本のエースとして五輪という夢の舞台へ向かう。

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