【47】障害予防も聖地から 甲子園にレントゲン室ができた日

 「日本高野連理事・田名部和裕 僕と高校野球の50年」

 連盟事務局に奉職して10年目の1979年オフに休みをいただいて米国西海岸に行った。ロスに着いてドジャース球場を見学した。後にP・オマリーのオーナー補佐となったアイク生原(昭宏)さんが球場を案内してくれた。

 ロスの青空の下、すり鉢状のスタンドの最上段から見渡すと憧憬(しょうけい)の思いが募った。

 エレベーターでベンチサイドまで降りた。メジャーの球場にはエレベーターがあると驚いた。ふと振り返るとベンチ裏に何とレントゲン室があった。メジャーの障害に対する取り組みが強く印象に残った。

 実はその後93年の春先のことだったと思うが、当時の牧野直隆会長から高校生のお孫さんがラグビーの選手で肩を痛めており、誰か整形外科の先生を紹介して欲しい、と依頼された。

 当時から阪神タイガースのチームドクターをされていた大阪大学医学部付属病院の越智隆弘教授に診察を依頼した。

 その後、越智先生に診察のお礼状を書いた。文中で、2年前の91年夏の73回選手権大会決勝で肘を痛めながら力投した沖縄水産の大野投手のことを書いた。相次ぐ投手のケガに何か障害予防対策はないものでしょうかと結んだ。すると時をおかず越智先生が電話をくださった。「甲子園から障害予防の取り組みを始めましょう。阪大の医局を挙げて協力します」と力強い言葉をいただいた。

 間もなく夏の大会の運営準備が本格化する頃だった。当時の朝日新聞社高校野球事務局長、土原剛さんに相談すると「この機会を逃さず改革しよう」と賛同してくれた。

 もちろん牧野会長も「投手のケガは昔から絶えなかった。これからはもし選手にケガをさせたら、それは指導者の責任だという時代にしよう」とこれまた前向きだった。

 まず運営委員会で、重症の投手は登板を禁止する大会規定を設け、整形外科医師による関節機能検査を導入した。最初の年は朝日新聞診療所のレントゲン設備を利用させていただいた。

 越智先生の監修で障害予防ビデオ「ピッチスマート3」を制作、全国の加盟校に無償配布した。一方、その年のオフに全国9地区で整形外科専門医による指導者講習会を開催するなど矢継ぎ早の対策を講じた。

 この動きに賛同した阪神タイガースの三好一彦球団社長の理解で翌94年3月、甲子園球場内にレントゲン室を設置することが決まった。恐らく日本の競技場内にX線撮影設備ができたのは初めてのことだったと思う。ロスのあの時から15年目、連盟事務局長就任の翌年だった。

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