ソフトバンク柳田をプロに送り出した龍憲一さん 「目で盗め」わざと得意球投げてくれた カープOB安仁屋宗八氏が振り返る昭和プロ野球

 広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。今では想像もつかない昭和ならではの破天荒なエピソードを語り尽くします。

  ◇  ◇

 僕の大先輩にあたる龍憲一さんは、お元気ですよ。昔から体が強かったし、衰えない健脚で今でも毎日のように歩いている。

 麻雀も強かったね。投手仲間でよく卓を囲んだものだが、ホント強気でね。自分の手がよければ“降りる”ことがない。どんどん向かっていきよったね。野球と一緒で逃げることがイヤみたいだった。

 いつだったか、僕が門限破りで自宅謹慎を食らったときも三日三晩、僕の家で麻雀をやっとったね。一番強かったのは大羽進さん。

 麻雀牌はまだ握ってるらしいけど、あれは頭の体操にも役立つし、近頃は子どももやってるみたいだからね。健康にいいんですよ。

 東映に入団し、広島へ移籍してきた龍さんだけど、僕が入団したころはリリーフ中心で投げていた。当時は今のような分業制ではなく、中継ぎも抑えも決まっていなかったし、先発で投げながらリリーフもするという感じだった。

 ストッパーの草分けとなった人は「8時半の男」と呼ばれた巨人の宮田(征典)さんだが、広島では龍さんがそういう存在だったね。僕も龍さんにはよく助けてもらいましたよ。

 僕が入団して2年目(1965年)の龍さんは18勝のうち17勝が救援で挙げたものだった。65試合の登板で57試合が救援だからね。あのころのチームは弱かったから、勝ってる試合は全部投げていたんじゃないかな。

 そして巨人戦では、僕と同じように燃えていたね。

 (1966年は後楽園球場で、V2を目指す巨人の目前での胴上げを安仁屋-龍の継投で阻止している)

 チームは万年最下位だったけど、意地だけはあったから。みんな相手の胴上げなど見たくないと思っていたからね。

 龍さんにはいろんな面でお世話になった。麻雀を教えてくれたのもね。野球でも遊びでも僕の恩人。ただ得意球のスライダーの握りについて尋ねたときだけは「目で盗め」と言って教えてくれなかった。

 しかし、投球練習中に背後や横、捕手の後ろに回って観察していると、わざとスライダーを投げてくれた。「どうや、分かったか。こうやって投げるんだぞ」みたいに。

 答えを直に教えるよりも、目を使って盗んで習得したほうが、自分自身のためになると思っていたのかもしれない。ちなみに龍さんのスライダーは滑らす感じ。縫い目に指を合わせるのは同じだが、僕の場合はひねりを加える感じ。龍さんのを土台にして。

 コーチ時代は1軍、2軍の入れ替わりで重なったことはなかったが、僕は龍さんが育てて出来上がった投手を、ただ引き継いで使うだけだったから楽だったね。池谷や佐伯、山根、大野、北別府らみんな龍さんが育てた投手。広島が投手王国と呼ばれたのは龍さんのお陰ですよ。

 龍さんは広島経済大学で監督をして、あの柳田(ソフトバンク)をプロ球界へ送り出した。教えるのが上手だから、学生野球でも成功したんじゃないかな。よくキャンプに顔を出しているみたい。柳田は龍さんの自慢の選手だから。鼻高々でしょう(笑)。(デイリースポーツ紙評論家)

 ◇龍憲一(りゅう・けんいち)1937年4月28日、福岡市出身。現役時代は右投げ右打ちの投手。175センチ、65キロ。福岡商大付大濠高卒。社会人の日炭高松から1960年に東映に入団。62年に広島に移籍し、70年限りで引退。引退後は広島で1、2軍コーチやスカウトなどを歴任。広島退団後は広経大監督(2010~12年)も務めた。通算成績は426試合登板、60勝68敗、防御率3・51。

 ◇安仁屋宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ。沖縄県出身。沖縄高(現沖縄尚学)のエースで62年夏に甲子園出場。琉球煙草を経て64年広島に入団。75年阪神に移籍し、同年に最優秀防御率とカムバック賞を受賞。80年に広島へ復帰し、81年引退。実働18年、通算655試合登板、119勝124敗22セーブ。引退後は広島の投手コーチ、2軍監督などを歴任。2013年12月から広島カープOB会長。22年から名誉会長。

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