王さんに一本足で対抗した大羽進さん 48勝のうち巨人戦19勝 カープOB安仁屋宗八氏が振り返る昭和プロ野球
広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。今では想像もつかない昭和ならではの破天荒なエピソードを語り尽くします。
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昔、カープに大羽進という投手がいましてね。僕より4つ先輩で変則左腕とでも言ったらいいのか。特に巨人戦で活躍していたからジャイアンツキラーと呼ばれてましたよ。確か48勝のうち巨人戦だけで19勝していた。
中でも注目されたのが王(貞治)さんとの対決だった。大羽さんの出身校が日大一。王さんが早実。東京出身の同学年だから、やっぱり意識していたようだ。
王さんがホームランを量産し始めてからは、どの投手も抑えるのが大変でしたよ。そこで大羽さんが考え出したのが“フラミンゴ投法”というやつ。
これは投球動作に入ってから一度か二度、あるいは三度、いったん上げた右足を止めて、タイミングをズラして投げるという独特の投法。ある時期から一定期間、二段モーションが禁止になったが、当時は関係なかったからね。
王さんの一本足打法には一本足投法で対抗するという発想だったんでしょう。これで打ち取ったときなんかは本当に痛快だった。
白石(勝巳)さんが監督をしていたころは他球団に先駆けて、内野手を右に寄せる「王シフト」を敷いていたから、広島というチームはいろんなことを試みる“土壌”があったのかもしれない。
“王対策”は大羽さんに限らず、何人かの投手がやっていた。有名なのは中日の小川健太郎さんの背面投げ。下手投げ投手だったけど、手が下からではなくナント背中から出てきた。これでいいところへ投げるのだから驚いたものだ。まあそれだけ王さんは偉大だったということ。
僕は王さんに対して常に真っ向勝負を挑んでいた。上げた右足のひざのあたりに狙いをつけて投げる。そこが“急所”というふうに言われていたから。でもガンガンに勝負していった分、よく打たれたものだ。
勝負して打たれるのは仕方がない。また気持ちを切り替えて次の試合に臨めばいい。僕はマウンドでいつもそう思って投げていた。そこが大羽さんに気に入られたのか、よく飲みに連れていってもらったもんですよ。
東京遠征では朝帰りが多かった。いわゆる門限破り。大羽さんは実家が東京だから門限がない。僕にはある。それでも最後まで付き合ったね。
マウンド上の大羽さんは感情を表に出さず、たとえ打たれても平然としていたが、飲みに行ってもまったく同じ。口数は少なく、いくら飲んでも変わらない“きれいな酒”の飲み方をする人だった。
広島では8年間、大羽さんにお世話になったけど、僕や白石(静生)、野手では苑田(聡彦)らをよく可愛がってくれていた。
現役最後は東映フライヤーズに移籍されたが、そのころに大羽さんから紹介されたのが、速球派投手で鳴らした尾崎行雄だった。僕と同学年のあの怪腕尾崎ですよ。
彼の投球スタイルから荒々しい性格を想像していたけど、会ってみるとまったく反対で、穏やかな気のいい男だった。尾崎が引退したあとは、彼が経営するお店に何度か行ったこともある。若くして亡くなったのは残念だったけどね。
大羽さんのお陰で交友関係も広がった。僕はいい先輩に恵まれたとつくづく思うね。
◆大羽進(おおば・すすむ)1940年9月19日生まれの85歳。東京都出身。現役時代は左投げ左打ちの投手。172センチ、68キロ。日大一から59年に広島に入団。1年目から1軍で登板し、66年には13勝(18敗)をマークして球宴にも出場。72年に東映に移籍し、その年限りで引退。14年間で通算446試合に登板、48勝79敗、防御率3.50。
◆安仁屋宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ。沖縄県出身。沖縄高(現沖縄尚学)のエースで62年夏に甲子園出場。琉球煙草を経て64年広島に入団。75年阪神に移籍し、同年に最優秀防御率とカムバック賞を受賞。80年に広島へ復帰し、81年引退。実働18年、通算655試合登板、119勝124敗22セーブ。引退後は広島の投手コーチ、2軍監督などを歴任。2013年12月から広島カープOB会長。22年から名誉会長。
