信頼し、任せ、責任を負わせるのが古葉さんの流儀だった カープOB安仁屋宗八氏が振り返る昭和プロ野球

 広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。今では想像もつかない昭和ならではの破天荒なエピソードを語り尽くします。

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 古葉(竹識)さんも当然、僕がお世話になった恩人のひとり。

 あれは僕が阪神へ移籍し、5シーズンが経過した年だから1979年のオフ。留守中に古葉さんから電話があって女房が出たんだが、内容は分からない。帰宅後すぐに折り返すと、「まだ現役をやりたいんだったらウチに来てもいいよ。支度金はないけど」という話だった。

 驚いたね。何が驚いたかと言うと、その日は阪神の球団事務所で小津(正次郎)社長から「来季は2軍のコーチをしてほしい」と要請され、「お願いします」と頭を下げたばかり。その直後だったからね。どこから聞きつけたのか。はたまた偶然だったのか。とにかく凄いタイミングだった。

 翌日、小津さんには正直に話しましたよ。「カープから現役で誘われたので行ってもいいですか」と。「あんた、どう思っているの」と聞かれたので、「僕はまだ現役に未練が残ってます」と答えると、「じゃあ行きなさい」と快く承諾してもらった。だからスンナリ決まった。うれしかったね。

 僕の現役続行については古葉さんが山本浩二や衣笠、水谷らに「ハチはまだ投げられるか」と相談したようで、そしたらみんなが「まだいけますよ」と言ったらしい。阪神時代の5年間の対戦が頭にあったんだろうね。

 そうやってカープに戻ったというのに復帰1年目(80年)はオープン戦中に十二指腸潰瘍でダウン。忘れもしない松山での巨人戦。登板前夜に胃のあたりが急に痛くなってどうにもならず、即入院。そして手術。松山の病院に20日間ぐらいいたね。阪神時代に抑え投手をやってたんで、神経をすり減らしていたんじゃないかなあと思ったね。

 結局、その年も翌年もチームに貢献することなく現役を終えることになったが、古葉さんにはありがたいことに、コーチとしてのキャリアも十分に積ませてもらった。

 2軍から1軍へ上がったときは、いきなりローテーションの配置から投手交代まで、投手コーチの仕事一切を任された。ヘッドコーチの田中(尊)さんに相談しながらの毎日だったが、「その代わり責任も取れ」と十字架も背負わされた。信頼と責任は一体。そういう意味ではずいぶん鍛えられたと思う。

 試合前のコーチミーティングで「お前の投手交代はアテにならんのぉ」と大きな声で僕を“ヤリ玉”に挙げて、みんなの笑いを誘うこともあったね。最初のころは自分より年下のコーチが少なかったから、そうやってストレスの発散をしていたのかな。

 でもファミリー的だったね。キャンプでの休日前夜はスタッフ全員を連れて食事に出掛けたもんですよ。古葉さんは酒は飲まないから、もっぱらカラオケと社交ダンス。懐かしいね。

 広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏が、現役時代の記憶を振り返ります。今では想像もつかない昭和ならではの破天荒なエピソードを語り尽くします。

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 選手時代は、あの長嶋さんと首位打者争いをしたことがあるほど。アゴへの死球禍でタイトルを取り損なったのは本当に残念だった。足が速くて守備も絶品。自分自身の特長でもある足を使った野球で、赤ヘル黄金期を築いていったんだね。

 広島での監督11年間の成績はリーグ優勝が4回、日本一が3回、Bクラスはたったの2回ですから。なんといっても広島に初めてペナントをもたらした人。カープ史上ナンバー1の監督と言えるでしょう。

 ◇安仁屋宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ。沖縄県出身。沖縄高(現沖縄尚学)のエースで62年夏に甲子園出場。琉球煙草を経て64年広島に入団。75年阪神に移籍し、同年に最優秀防御率とカムバック賞を受賞。80年に広島へ復帰し、81年引退。実働18年、通算655試合登板、119勝124敗22セーブ。引退後は広島の投手コーチ、2軍監督などを歴任。2013年12月から広島カープOB会長。22年から名誉会長。

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